聖書が語る「死後の世界」(3)天国はどこにあるのか

空

前回の記事では、人はこの世以上のもの、つまり天国を心のどこかで慕い求めながら生きていることについて語りました。また、聖書は明確に死後の世界を教えていることも確認しました。

今回は、死後の世界の中でも「天国」に焦点を当てて、天国がどういう場所かを考察していきます。

なぜ天国について学ぶのか

クリスチャンにとって、天国について知ることは自分が死後にどこに行くかを知る以上の意味があります。使徒パウロが、コロサイ3:1~2で次のように語っているためです。

1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

「上にあるもの」とは、天国のことです。「キリストが神の右の座に着いておられる」場所とは、天国(天)のことだからです(エペソ1:20参照)。パウロはさらに「上にあるものを思いなさい」と語っています。つまり、天国のことを思って地上生涯を生きなさいと命じていることになります。肉体は地上にあっても、心は天にあるというのがクリスチャンの生き方です。

ただ、このみことばに立って地上生涯を歩むには、天国のことを知っている必要があります。知らないものを思って生きることはできないためです。

クリスチャンでない人にとっても、聖書が語る天国について知ることは重要です。自分が失う可能性があるものがいかに大きなものであるかを知ることができるためです。

天国とは

クリスチャンはキリストを信じれば天国に行けると信じています。そして、実際にそうです。しかし、天国について漠然としたイメージは持っていても、天国をはっきりと思い描ける人は少ないように思います。それは、天国をテーマにした説教(メッセージ)がほとんど語られない教会の実情を反映しているのかもしれません。しかし、神は天国について、私たちが知るべき事実を聖書を通して啓示しておられます。

天国は実在する場所

天国についてまず確認しておく必要があることは、天国は実在の場所だということです。天国は雲の上にあって、そこに死者の霊がフワフワと浮かんでいるようなイメージで描かれることがあります。日本で言うと、霊界と呼ばれるような所のイメージです。しかし、天国は霊界のようなものではありません。具体的な場所です。イエス・キリストは、ヨハネの福音書で弟子たちに次のように語っています。

2  わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。(ヨハネ14:2)

「わたしの父の家」とは、父なる神が住まう場所、つまり天国を指します。イエスの「場所を用意しに行く」という言葉の「場所」とは、原語のギリシャ語では「トポス」という単語です。「トポス」は、具体的に特定できる場所を意味します。つまり、イエスは実在の場所を指して「父の家」と呼んでいます。そして、そこに弟子たちを迎え入れるための場所を用意すると語っておられるのです。

天国=パラダイス

意外に思う方もおられるかもしれませんが、よく使われている日本語の聖書には「天国」という言葉が出てきません。一部の日本語訳聖書では天国という言葉が使われていますが、日本人が思い描くような天国を意味する言葉ではありません。そのため、原語に忠実な訳では天国という言葉は使われていないのです。

聖書で天国に相当する意味を持つ言葉は「パラダイス」です(原語のギリシャ語では「パラデイソス」)。パラダイスは「王の庭」「庭園」という意味の言葉で、聖書では「神と共にいる楽園」「天国」という意味で使われています。この言葉のモチーフは、アダムとエバが初めにいた「エデンの園」です。実際に、旧約聖書をヘブル語からギリシャ語に翻訳した『七十人訳』では、エデンの園の「園」の訳として、「パラデイソス」が使われています。

3つのパラダイス

「パラダイス」という言葉は、新約聖書に3回出てきます。この3回は、実はそれぞれ別の場所を指しています。というのは、聖書では天国と呼べる場所が時代によって移り変わり、3つあるためです。この3つの場所は、(1)旧約聖書の時代の天国、(2)キリストが復活して以降の天国、そして(3)将来の最終形態としての天国に対応しています。

(1)ルカ23:43(旧約聖書の時代の天国)

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 

この言葉は、イエスが十字架上で、イエスに対する信仰を告白した強盗に語りかけた言葉です。この「パラダイス」は、旧約時代の天国である「アブラハムのふところ」と呼ばれる場所を指しています。

(2)2コリント12:4(キリストが復活して以降の天国)

彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。 

この言葉は、使徒パウロが語ったもので、天国(パラダイス)に引き上げられたことがある自分の体験について語っています。このパラダイスとは、キリストが復活して以降の天国である「天」を指しています。

(3)黙示録2:7(将来の最終形態としての天国)

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。

ここはヨハネの黙示録の一部で、復活後のキリストが使徒ヨハネに語りかける場面です。この「パラダイス」は、将来の最終形態としての天国「新天新地の新しいエルサレム」を指しています。

天国はどこにあるのか

天国がどういう所かを知るための手がかりの一つは、天国がある場所を知ることです。上記のように、聖書には3つの天国が記されているので、それぞれの場所を把握しておかないと、天国についての記述を正しく理解することができないためです。

そこで、以下では聖書に記されているパラダイス(天国)の3つの場所をそれぞれ見ていくことにします。

1. 旧約聖書の時代:「アブラハムのふところ」(よみの一部)

旧約聖書の時代は、人は死ぬとすべて「よみ」(シェオル)と呼ばれる場所に行きました。

旧約聖書は、よみは地の下にあると語っています。よみに行くことは、常に「よみに下る」と表現されているためです。たとえば、「雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません」(ヨブ7:9)、「悪しき者どもを辱めてください。彼らが黙って よみへと下るように」(詩篇31:17)のように言われています。

よみに行く点は、悪人も義人も同じです。イスラエル民族の父祖ヤコブは、自分が死ぬことを「よみに下る」と語っています(創世記37:35など)。

ただし、よみは2つの区画に分かれていて、義人は「アブラハムのふところ(懐)」と呼ばれる慰めの場所に行き、そうでない人々は「苦しみの場所」と呼ばれる場所に行くとされます(ルカ16:19~31)。つまり、旧約聖書の時代は、「アブラハムのふところ」が天国に相当する場所だったと言えます。

よみは地の下にある世界です。そのため、「アブラハムのふところ」を「天国」と呼ぶには語弊があります。そのため、「天国」の代わりに「パラダイス」という聖書の用語を使って表現した方がよいでしょう。


アブラハムのふところについての詳細は、前回の記事「聖書が語る「死後の世界」(2)死後の世界は存在する」を参照してください。

ここで注目すべき点は、この時代のパラダイスは、神が臨在する天にはなかった、という点です。イエス・キリストがよみの世界について語ったルカ16:19~31では、アブラハムのふところにアブラハムはいても、神はおられません。神は遍在の方なので、そういう意味では神はどこにでもおられるのですが、アブラハムのふところの描写では神の臨在に一言も触れられていません。神の御座は、地の下ではなく、天にあるためです。

この状況が変わるのは、イエス・キリストが十字架上で死に、復活された後のことです。

2. 現在:「天(第三の天)」

パラダイスの二つ目の場所は「天」です。

聖書では「天」という言葉には複数の意味がありますので、厳密に言うと「第三の天」が天国に該当する場所です。聖書の「天」には3つの意味があり、ユダヤ人はそれぞれ「第一の天」「第二の天」「第三の天」と呼んで区別しました。この3つの天の意味は、以下のとおりです。

  1. 第一の天:大空(例:イザヤ55:10)
  2. 第二の天:宇宙空間(例:創世記1:16~17)
  3. 第三の天:神の御座がある場所(例:使徒7:55~56、イザヤ40:22)

このうちパラダイスと呼ばれているのは「第三の天」です。ここが、今クリスチャンが死ぬと行く場所です。日本人が思い浮かべる天国のイメージに近いのは、この「天」です。

「第三の天」

この「第三の天」という言葉は、新約聖書の2コリント12:2~4に出てきます。ここで使徒パウロは「キリストにある一人の人」の体験について語っていますが、実はパウロ自身の体験のことです。パウロはこの体験について、次のように語っています。

2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。 3  私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。 4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。 

ここでパウロは「第三の天」に引き上げられた体験があると語っています。また、第三の天は「パラダイス」とも呼ばれています。ここからも、この時にはパラダイスはアブラハムのふところではなく、天に移っていたことがわかります。

いつパラダイスが移行したか

キリストは、十字架上で死に、葬られた後、よみに下られました(マタイ12:40)。よみと言っても、義人の魂が住まうアブラハムのふところの方です。この時、十字架上でイエスに対する信仰を告白をした強盗も、一緒にアブラハムのふところに下っています。イエスは「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたためです。その後、復活したキリストは、アブラハムのふところにいるすべての義人を伴って天に上られました。この出来事を記しているのが、エペソ4:8~9です。

8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 9 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。(新改訳聖書第三版)

9節の「地の低い所」とは、よみを指しています。8節の「高い所」とは、天のことです。この時に、よみのアブラハムのふところにいた義人の霊は、天に引き上げられました。これ以降、義人の魂が行く場所は、アブラハムのふところではなく、第三の天になっています。

ただ、意外に思われるかもしれませんが、第三の天は義人の一時的な住まいにすぎません。ヨハネの黙示録には、天が地に下り、天と地が一つになる世界、新天新地の時代が来ることが預言されているためです。

3. 将来:「新天新地の新しいエルサレム」

義人が最終的に永遠を過ごすのは、「新天新地の新しいエルサレム」と呼ばれる場所です。聖書では次のように言われています。

13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます(2ペテロ3:13)

今ある天と地は滅び、新しい天と地が再創造されるというのが、聖書の預言であり、メッセージです。同じペテロの手紙第二の別の箇所では、次のように言われています。

7 今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(2ペテロ3:7)

現在の天と地が火によって滅びた後に登場するのが、新しい天と新しい地です。新しい天と新しい地について、ヨハネの黙示録では次のように記されています。

1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 

2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:1~2)

この聖句を読むと、義人の住む都「新しいエルサレム」が天から地上に下り、最終的には天と地が一つになることがわかります。聖書の別の箇所で、次のように言われているとおりです。

10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。(エペソ1:10)

この新しい天と新しい地に降り立った新しいエルサレムに、私たちクリスチャンは住むのです。この新しいエルサレムには、神の御座があり、神が人と共に住みます。聖書で次のように言われているとおりです。

3  私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(黙示録21:3)

信仰者たちが待ち望んでいた都

旧約聖書の信仰の偉人たちが待ち望んでいたのも、この都のことです。聖書はアブラハムについて、次のように語っています。

9 信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。 10 堅い基礎の上に建てられたを待ち望んでいたからです。そのの設計者、また建設者は神です。(ヘブル11:9~10)

また、その他の旧約時代の信仰者についても、聖書は次のように語っています。

13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのためにを用意されたのです。(ヘブル11:13~16)

新しいエルサレムは今すでに存在している

この新しいエルサレムは、今すでに天に存在しています。使徒パウロが次のように語っているためです。

しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。(ガラテヤ4:26)

「上にあるエルサレム」とは、新しいエルサレムのことです。「上にある」と現在形で語られているということは、今すでに天に存在しているということです。イエスが「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われた「場所」とは、この新しいエルサレムのことだと考えられます。

この都「新しいエルサレム」が、義人の永遠の住まいとなるのです。ヨハネの黙示録21~22章に記されている新しいエルサレムの描写を読むと、聖書が教えている天国とは、雲の上で霊がフワフワ浮かんでいるような所とはまったく違う世界であることがわかります。


新天新地の新しいエルサレムについては、別の記事で詳しく紹介する予定です。

天国の3つの場所からわかる3つのこと

以上の天国(パラダイス)の3つの場所の記述から、以下の3つのことがわかります。

1. キリストの贖いのわざの大きさ

旧約聖書の時代には、義人も天には上らず、よみに下っていました。「アブラハムのふところ」と呼ばれる慰めの場所でしたが、それでも神がおられる天とは切り離された場所でした。キリストが人類の罪を負って十字架にかかって死に、人類を救う贖いのわざが完成するまで、人が天で神と共に住むことはできなかったためです。旧約時代の信仰の偉人も、キリストの血潮によって天の聖所がきよめられることで(ヘブル9:23~24)、初めて天に住まうことができるようになったのです。このことは、キリストの十字架のみわざが人類の歴史上でいかに大きな出来事であったかを示しています。

2. 天上の住まいは最終的な終着点ではない

義人の終着点は、新天新地にある新しいエルサレムです。つまり、現在義人が住まう天は、最終的な住まいではないということです。義人が住む天の新しいエルサレムは、最終的に地上に下ってくるためです。

こう考えると、クリスチャンが永遠を天上で過ごすイメージを具体的に描けないのも無理ないことだと言えます。天がどういう場所かという描写が聖書に少ないのも、このことが関係しているのでしょう。人は、最終的には天と一つになった地上で永遠を生きることになるためです。

旧約聖書の詩篇には、次のようなことばがあります。

9  悪を行う者は断ち切られ

【主】を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。 

10  もうしばらくで 悪しき者はいなくなる。

その居所を調べても そこにはいない。 

11  しかし 柔和な人は地を受け継ぎ

豊かな繁栄を自らの喜びとする。(詩篇37:9~11)

イエスも、山上の垂訓で次のように語っています。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)

もし義人が天上で永遠を過ごすのであれば、地を受け継いでも意味がありません。この言葉は、人が最終的に地で暮らすようになることを前提にしています。この「地」とは、第一義的にはキリストの再臨後に設立される地上の王国「千年王国(メシア的王国)」のことを指しますが、その後に来る「新天新地」を含むと考えるべきです。

3. 神のご計画は人類の救済だけではなく、被造物の再創造も含む

義人の終着点である新しいエルサレムは、新しい天と新しい地に降り立ちます。つまり、この前に天と地の再創造が行われています。そのため、神のご計画には、人類の救済だけではなく、被造物の回復も含まれていることになります。

神は、最初に創造した世界を「非常に良かった」(創世記1:31)と言われました。神は人類を罪から救うだけではなく、罪の影響でのろわれた被造物の世界も救済することを計画されたのです。聖書では次のように言われています。

19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。 20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。 21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。(ローマ8:19~21)

被造物が「虚無に服し」、「滅びの束縛」を受けているのは、アダムの罪によるのろいの結果です(創世記3:17)。こののろいが取り除かれ、被造世界が回復する時が来ることが、ここでは預言されています。この預言が完全に成就するのが、新天新地の時代です。

聖書の最初の2章に天地創造とエデンの園の記述があり、最後の2章に新天新地と新しいエルサレムの記述があるのは、決して偶然ではありません。神は、「非常に良かった」と評価した天と地、神と人が住む地上の楽園であるエデンの園を回復しようとしておられるのです。新しいエルサレムに、エデンの園にあった「いのちの木」があるのも、決して偶然ではありません(黙示録22:2)。都の中心にあるいのちの木や川は、エデンの園を連想させるもので、新天新地ではエデンの園が回復されていると言えます。

新しいエルサレムが地上に降りてくるのは、神が住まう天と人が住む地が一つになり、神と人が共に住む世界が再び現れることを示しています。この新天新地に住む人には、すでに罪を犯すことがない復活の体が与えられているので、アダムやエバのように罪を犯してパラダイスを追われることもありません。

人は、再創造された神の被造物の世界で、神と共に永遠を生きることになるのです。

まとめ

天国(パラダイス)には、以下の3つの場所があります。

  • アブラハムのふところ
  • 天(第三の天)
  • 新しいエルサレム

この3つの場所を学ぶことで、以下の3つのことを知ることができます。

  • キリストの贖いのみわざの大きさ
  • 天上の住まいは最終的な終着点ではない
  • 神のご計画は人類の救済だけではなく、被造物の再創造も含む

今でも、私たちは季節ごとに収穫される果実といった自然の産物を楽しみ、透き通るような青空や、星がきらめく美しい夜空、色とりどりの花々といった自然を楽しみながら生きています。こうしたものはすべて、神の被造物です。クリスチャンは死後、永遠に霊の世界で生きるのではありません。最終的には、再創造された被造世界で、アップグレードされた神の被造物を楽しみながら、復活の肉体を持って神と共に永遠を生きることになるのです。私たちは、このような壮大な神のご計画の中で生かされています。

新しいエルサレムには、今はクリスチャンでない人を含め、すべての人が招かれています。ただ、この都の市民権を得るには、招待状に返事をする必要があります。この招待状が、イエス・キリストの福音です。この福音を受け取り、信じることが、神の招待状に「はい」と返事をすることになるのです。

キリストは、すべての人の罪のために死なれ、葬られ、復活されました。それは、あなたの罪を背負い、あなたが罪のない義人として、神の都で神と共に住むことができるようになるためです。キリストをまだ信じていない方は、キリストを信じ、神の都に住むための招待状を手に、新しいエルサレムに入ってください。皆さんと新天新地でお会いできるのを楽しみにしています。

参考資料

  • アーノルド・フルクテンバウム博士(通訳:中川健一)『聖書が教える死後の世界 ― 個人的終末論 ―』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2012年)
  • Alan W. Gomes, 40 Questions About Heaven And Hell (Kregel, 2018)
  • David Jeremiah, Revealing the Mysteries of Heaven (Turning Point, 2017)
  • David Jeremiah, “What is Heaven like?” (https://www.youtube.com/watch?v=Iu3urc7I6yI)
  • Randy Alcorn, Heaven (Wheaton, IL: Tyndale House Publishers, 2004)
  • Randy Alcorn, 50 Days of Heaven: Reflections to Bring Eternity to Light (Tyndale Momentum, 2006)

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