イエスは本当に復活したのですか(3)変えられた人生

園の墓

この記事は、イエスの復活を歴史学的に検証するシリーズの第3回です。前回に引き続き、イエスの復活に関する歴史的事実を探ります。今回は、次の出来事について検証します。

3.復活したイエスに出会ったと証言した人々の人生が、その前後で一変した

イエスの復活に関連する史実として歴史学者が認めていることの3つ目は、復活したイエスに会ったと証言した人々の人生が一変したことです。ここでは以下の3つの集団、個人の例を見ていきます。

  • イエスの弟子たち
  • イエスの兄弟ヤコブ
  • パウロ

イエスの弟子たち

復活したイエスに会ったと証言し、人生が一変した最初の人々は、イエスの弟子たちです。

恐れて引きこもっていた弟子たち

十二使徒を初めとするイエスの初期の弟子たちは、イエスの公生涯の間、イエスと生活を共にし、福音を一緒に宣べ伝えてきました。しかし、イエスが十字架にかけられる直前の段階になると、ほとんどの弟子たちがユダヤ当局を恐れ、イエスの元から逃げ去っていました(マタイ26:56、マルコ14:50)。十二使徒のリーダー格であるペテロは、かろうじてイエスの裁判の場に忍び込み、イエスがどうなるかを見守っていました。しかし、イエスの弟子だということがばれると、イエスのことなど知らないと3度も否定し、追求を逃れた、と福音書に記録されています(マタイ26:69~75など)。

イエスが十字架にかけられた後も、弟子たちはユダヤ当局を恐れ、家に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスが復活した後、弟子たちに現れたのは、そのような時だったと記録されています。ヨハネの福音書では、その時の様子が次のように語られています。

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 (ヨハネ20:19)

以上のような記録は、初代教会のリーダーとなった彼らにとって恥ずかしいものであり、事実でなければ書けないような内容です。そのため、イエスの弟子たちが恐れて引きこもっていたという記録は、当人にとって不利な証言であることもあって、歴史家は史実とみなしています。

命をかけてイエスの復活を宣べ伝えた弟子たち

そんな弟子たちでしたが、復活したイエスに会ったと証言して以降は、人が変わったように勇敢になり、ユダヤ当局を恐れることなく宣教するようになります。その後、ローマ帝国もイエスの弟子たちに対する迫害に加わりますが、それでも宣教の勢いは衰えませんでした。高校で使われている世界史の教科書では、次のように教えられています。

当時のローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされた。それに基づいて皇帝崇拝儀礼がしだいに強化されていったが、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は皇帝礼拝を拒み、国家祭儀に参加しなかった。そのため彼らは反社会集団とみなされ、ネロ帝の迫害(64年)からディオクレティアヌス帝の大迫害(303年)まで、民衆や国家から激しく迫害された。しかしキリスト教は帝国全体に拡大を続け、ついにこれを禁じれば、もはや帝国の統一が維持されないことが明らかとなったため、コンスタンティヌス帝は313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した。1

このように、世界史の教科書でも、初期の教会が激しい迫害を受けながら、それでもキリスト教を宣べ伝え続けたことが史実として教えられています。

そのような教会に対する迫害で有名なのが、多くの十二使徒の殉教です。伝承によると、ヨハネ以外の十二使徒はすべて殉教したと言われています。十二使徒の死に方についても言い伝えがあり、一般的には次のように言われています。

使徒 場所 最期
アルパヨの子ヤコブ エルサレム 撲殺
熱心党員シモン エルサレム 殉教
ゼベダイの子ヤコブ ユダヤ(使徒12:2) 処刑
タダイ メソポタミヤ 殴殺
ペテロ ローマ 逆さ十字架刑
マタイ パルティア 打ち首
ピリポ 東トルコ 拷問を受けて十字架刑
トマス インド 槍で刺殺
バルトロマイ インド 皮をはがされて十字架刑
アンデレ ウクライナ、ロシア、ギリシャ 絞首刑
ヨハネ パトモス島、エペソ 島流しの後、自然死

参照:”Jesus: One of a Kind. John 1:14. Dr. Andy Woods. 4-20-25″ (https://www.youtube.com/watch?v=eADdYR5oshk)

十二使徒の殉教については、教会の伝承はあるが(例:付録「A. ローマのヒッポリュトス」)、その他の史料が少なく、歴史学的な検証は難しいと言われています。ただし、ペテロ、ゼベダイの子ヤコブの殉教については、歴史学的にもほぼ確実だと言われています。その次に確実なのがトマスの殉教で、事実である可能性が高いとされています2

ローマのクレメンス
ローマのクレメンス

使徒の殉教については、使徒の直後の時代に教会を指導した教会教父が多数証言しています。たとえば、テルトゥリアヌス(160年頃~220年頃)は、ペテロの殉教について「ペテロはほかの人に帯を締められ、十字架につけられた」と語っています(付録「B. テルトゥリアヌス」参照)。また、ローマのクレメンスも、ペテロの殉教に言及しています(付録「C. ローマのクレメンス」参照)。ゼベダイの子ヤコブの殉教については、アレキサンドリアのクレメンスが言及しています(付録「D. アレキサンドリアのクレメンス」参照)。

トマスの殉教については、トマスが紀元1世紀に設立したとされるマラバル教会(南インド)に、古くから一貫して伝わるトマス殉教の伝承があります。

その他の十二使徒の殉教を歴史学的に検証することは難しくても、イエスの弟子たちが厳しい迫害の中で宣教したことは確かです。紀元1世紀にクリスチャンが迫害にさらされていたことは、複数の独立した歴史的資料、特に敵対者・第三者の証言で確かめることができるためです。

タキトゥス
タキトゥス

たとえば、ローマ史家のタキトゥス(紀元55年頃~120年頃)は、皇帝ネロ(在位54年~68年)のクリスチャンに対する迫害について記し、「(ローマの大火は皇帝ネロの命令だという噂が消えなかったので)ネロは、噂を打ち消すため、その数の多さのために憎まれていたクリスチャンと呼ばれる人々に罪を着せ、最も残酷な拷問で罰した」と語っています(付録「E. タキトゥス」参照)。ペテロが殉教したのは、このネロ帝の治世だったと言われています(付録「B. テルトゥリアヌス」参照)。また、ローマの政治家であった小プリニウス(紀元61年頃~113年頃)は、棄教しないクリスチャンを処刑していることをローマ皇帝に報告しています(付録「F. 小プリニウス」参照)。さらに、ローマ史家のスエトニウス(70年頃~140年頃)も、クリスチャンが迫害されていた事実を書き記しています(付録「G. スエトニウス」参照)。

このような歴史的資料を総合して考えると、十二使徒の殉教の伝承には、信じるに足る根拠があると言うことができます。また、ペテロ、ゼベダイの子ヤコブの殉教についてはほぼ確実とされています。

弟子たちの変化の原因

迫害を恐れて引きこもっていた弟子たちは、迫害を恐れず大胆にキリストの福音を宣べ伝える者に変えられました。その理由を、古代キリスト教の神学者であるオリゲネス(185年頃~254年頃)は次のように語っています。

イエスは、ご自身がよみがえられただけでなく、ご自分がよみがえったことを弟子たちに信じさせ、これが事実であることを心底納得させた。そのため、弟子たちは自分たちが通った苦難を通して、人生のあらゆる困難をものともしないことをすべての人に示したのである。永遠のいのちと復活が、言葉と行いによってはっきりと示されたのを目撃したからである。3

“Jesus, who has both once risen Himself, and led His disciples to believe in His resurrection, and so thoroughly persuaded them of its truth, that they show to all men by their sufferings how they are able to laugh at all the troubles of life, beholding the life eternal and the resurrection clearly demonstrated to them both in word and deed.”

オリゲネスは、弟子たちが変わったのは、イエスの復活を目撃したためであると語っています。

無神論者の新約聖書学者ゲルト・リューデマン(Gerd Lüdemann)は次のように結論づけています。

イエスの死後、ペテロと弟子たちが、復活したキリストとしてイエスが現れたという体験をしたことは、歴史的に見て確実だとみなしてよい。4

“It may be taken as historically certain that Peter and the disciples had experiences after Jesus’ death in which Jesus appeared to them as the risen Christ.”

リューデマンは無神論者なので、復活自体は信じていません。それでも、復活のイエスに会ったという弟子たちの体験自体は否定できないのです。

また、初期のキリスト教を研究する歴史家のポーラ・フレドリクセン(Paula Fredriksen)は、インタビューの中で次のように語っています。

彼ら(弟子たち)自身の言葉から、彼らが見たのは復活したイエスだということはわかっています。彼ら自身がそう語っており、その後に残されたあらゆる歴史的証拠も、それが彼らが見たものだったと確信していたことを裏付けています。私は、彼らが実際に復活したイエスを見たのだと言っているわけではありません。私はその場にいませんでした。彼らが実際に何を見たのかはわかりません。しかし、歴史家として言えるのは、彼らが何かを見たことには間違いない、ということです。(強調筆者)5

“I know in their own terms what they saw was the raised Jesus. That’s what they say and then all the historic evidence we have afterwards attest to their conviction that that’s what they saw. I’m not saying that they really did see the raised Jesus. I wasn’t there. I don’t know what they saw. But I do know that as a historian that they must have seen something.”

初代教会の研究者は、弟子たちが人生を変えるほどの何かを見たこと自体は否定しません。歴史的資料を見れば、否定できないのです。ただ、それが復活したイエスであったかどうかについては言葉を濁します。それが弟子たち自身が語っていることであってもです。

イエスの復活を長年研究している新約聖書学者のマイケル・リコーナ(Michael Licona)は、次のように語っています。

イエスの死後、弟子たちは迫害に耐え、そのうちの何人かは殉教した。弟子たちの信念の強さは、イエスが死者の中からよみがえって現れたと、ただ主張していただけではないことを示している。本当にそう信じていたのだ。そのため、復活したキリストを公に宣べ伝えることで、自ら進んで危険に身をさらしたのである。6

“After Jesus’ death, the disciples endured persecution, and a number of them experienced martyrdom. The strength of their conviction indicates that they were not just claiming Jesus had appeared to them after rising from the dead. They really believed it. They willingly endangered themselves by publicly proclaiming the risen Christ.”

初期キリスト教の迫害の歴史を見ると、イエスが復活したと心から信じていなければ、数多くの使徒や弟子たちが殉教していったことを説明できません。人は、自分が嘘とわかっていることのために死ぬことはできないためです。

イエスの兄弟ヤコブ

復活したイエスに会ったと証言し、人生が一変した第二の人は、イエスの兄弟ヤコブです。

懐疑論者であったイエスの兄弟ヤコブ
ヨセフス
ヨセフス

福音書には、イエスにヤコブという兄弟がいたことが記されています(マタイ13:55、マルコ6:3)。このヤコブについては、ユダヤ人史家のヨセフスも「クリストス(キリスト)と呼ばれたイエスス(イエス)の兄弟ヤコボス(ヤコブ)」と言及しており(付録「H. ヨセフス」参照)、歴史学的にも実在の人物と認められています。

このヤコブは、イエスが地上で生きている間は、イエスを救い主とは信じていなかったと福音書に記されています(マルコ3:20~21、31~35、ヨハネ7:5)。マルコ3:20~21、31~35では、「イエスの母と兄弟たち」(マルコ3:31)が、人々に説教を語っていたイエスを呼び戻しに来たと言われています。イエスが救い主であると信じていたなら、やめさせて家に連れ戻そうとするはずはありません。その代わりに、群衆の中にいて説教を聞くはずです。そのため、当時はイエスを信じていなかったことがわかります。

エルサレム教会の指導者となったヤコブ

イエスの兄弟ヤコブについては、福音書の中にイエスを救い主として信じたという記述がどこにもありません。しかし、イエスに対して懐疑的であったヤコブも、「使徒の働き」の時代に入ると、信者の集会に参加するようになっています(使徒1:14)。そして、次に登場した時にはエルサレム教会の指導者になっています(使徒15:12~21)。また、パウロはヤコブのことを「使徒」と呼んでいます(ガラテヤ1:19)。

その他の歴史的資料でも、ヤコブは初代教会の指導者として記録されています。たとえば、初期キリスト教の著作家ヘゲシップス(紀元110~180年)は、「主の兄弟ヤコブは、使徒たちとともに教会を継承した」と記しています(付録「I. ヘゲシップス」参照)。初期の教会指導者であるアレキサンドリアのクレメンス(150年頃 〜 215年頃)は、ヤコブはエルサレム教会の初代監督に選ばれたと書き記しています(付録「D. アレキサンドリアのクレメンス」参照)。

ヤコブの殉教

イエスの兄弟ヤコブは、エルサレムで殉教したと言われています。

たとえば、ヨセフスはヤコブがユダヤ教の指導者の手によって石打ちの刑に処せられたと書き記しています(付録「H. ヨセフス」参照)。また、教会史家のエウセビオスは、ヤコブが殉教した経緯を詳しく書き記しています(付録「J. エウセビオス」参照)。このような第三者と独立した資料の存在により、イエスの兄弟ヤコブの殉教は、歴史学的にほぼ確実な事実とされ、史実と認められています。

ヤコブの変化の原因

ヤコブは、当初イエスを救い主として信じていませんでした。ヨハネの福音書で「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」(ヨハネ7:5)と言われているとおりです。しかし、いつの間にかイエスを信じるようになり、エルサレム教会の指導者になります。その間にあった出来事が、イエスの復活です。

ヤコブは、復活したイエスに会った一人とされています(1コリント15:7)。福音書の時代のヤコブと、「使徒の働き」のヤコブを比較し、その変わり様を見ると、復活のイエスに会ったという証言には説得力があります。それほどの大事件がないと、ヤコブの変化を説明しにくいためです。

新約聖書学者のレジナルド・フラー(Reginald Fuller)は、こうしたヤコブの変化を踏まえ、次のように語っています。

もし新約聖書の中に、主の兄弟ヤコブに[イエスが]現れたという記録がなかったとしたなら、ヤコブが[イエスの]復活後に回心し、短期間で指導的立場に就いたことを説明するために、私たちがそのような出来事をでっち上げないといけないことになっていたかもしれない。7

“It might be said that if there were no record of an appearance to James the Lord’s brother in the New Testament we should have to invent one to account for his post-resurrection conversion and rapid advance.”

フラーが言うように、ヤコブの変化を説明するには、復活したイエスに会ったのと同じレベルの出来事がないと説明がつきません。そうなると、復活したイエスに本当に会ったと考えるのに何の不都合があるのでしょうか。

パウロ

復活したイエスに会ったと証言し、人生が一変した3人目はパウロです。

パウロが実在の人物であることを疑う学者は基本的にいません。聖書を批判的な視点で研究する学者でも、パウロ書簡のうち少なくとも7つはパウロが書いたものということで、意見がほぼ一致しています(ローマ、1コリント、2コリント、ガラテヤ、ピリピ、1テサロニケ、2テサロニケ、ピレモン)。そのため、著者であるパウロの実在は自明のものとされています。

教会の迫害者だったパウロ

パウロは、当初は教会を迫害する側のユダヤ人でした。パウロは、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ピリピ人への手紙で、自分は教会を迫害する者だったが、回心してキリストの福音を伝える者となったとみずから語っています(1コリント15:9~10、ガラテヤ1:12~16、22~23、ピリピ3:6~7)。

サウロと呼ばれていた時代のパウロは、クリスチャンを捕縛する権限も与えられていた有力なユダヤ教のラビでした。新約聖書の「使徒の働き」では、最初の殉教者となった弟子、ステパノの石打ちの現場にもいて、石打ちに賛成していたと言われています(使徒7:58、8:1)。

使徒の働きが書かれた時には、教会の指導者となっていたパウロにとって、このような情報は恥ずべきものです。つまり、当人に都合の悪い証言です。そのため、パウロが教会の迫害者だったことは信頼性の高い情報とされます。また、複数の独立した資料で確認できるため、ほぼ確実な事実と認められています。

パウロの回心

パウロがキリストを信じて回心したことについても、学者の間で争いはありません。

教会を迫害していたパウロが回心する原因となったのが、ダマスカス(ダマスコ)途上で復活したイエスに出会ったことだと「使徒の働き」には記されています(使徒9:1~20、22:3~16、26:9~23)。この時のことは、次のように記されています。

3 …サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」 

5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」 

ダマスカス途上のパウロ
ダマスカス途上のパウロ

教会の迫害者からキリストの使徒になったパウロの変化を考えると、実際に上記のような出来事があったと考える方が自然ではないでしょうか。そして、パウロはそう証言しているのです。

なお、教会を迫害していたパウロ(サウロ)が復活のイエスに会ったという証言は、イエスの復活に関する「敵対者の証言」となっています。つまり、イエスの復活は、味方だけでなく、敵も証言している出来事ということになり、歴史学的に信頼性の高い情報となります。

パウロの殉教

パウロが殉教したことは、歴史学的にほぼ確実とされています。

教会教父のテルトゥリアヌス(160年頃~220年頃)は、パウロはローマ帝国の手によって斬首されたと語っています(付録「B. テルトゥリアヌス」参照)。パウロもペテロと同様、皇帝ネロ(在位54年~68年)の時代に殉教したと言われています。また、ペテロの直弟子だったローマのクレメンス(紀元30年頃~101年頃)も、パウロの受けた迫害と殉教について書き記しています(付録「C. ローマのクレメンス」参照)。また、ヨハネの直弟子だったポリュカルポス(紀元69年頃~155年頃)も、パウロの殉教を示唆しています(付録「K. ポリュカルポス」参照)。

パウロの証言が持つ説得力

復活のイエスに会ったというパウロの証言に説得力があるのは、イエスの復活が作り話であれば、パウロは作り話のためにラビとしての地位を捨てて、同胞に迫害される道を選んだことになるためです。そのようなことは通常考えられません。

また、パウロは自身の手紙でも復活のイエスに出会ったことを書き記しており(1コリント9:1、15:8)、イエスの復活に関する一次資料として価値が高いとされています。聖書を批判的に研究するイエス・セミナーの一員であるロイ・フーバーは、次のように語っています。

パウロの証言は、イエスの復活に関する証拠の中で、最も古く、歴史的に最も信頼できる証拠である。…パウロが提供する復活に関する最も重要な証拠とは…復活したイエスを彼自身が目撃したと直接的な主張をしている点である。8

“Paul’s testimony is the earliest and the most historically reliable evidence about the resurrection of Jesus that we have… The most important evidence about the resurrection with which Paul provides us is … a direct claim that he has seen the risen Jesus.”

コリント人への手紙第一は、復活したイエスに会ったと証言するパウロ自身が語る一次資料です。また、この手紙が書かれた年代も、イエスの十字架から時代的に近い紀元55年頃とされています。しかも、復活のイエスに会った人々に関する記述は、紀元55年以前からある信仰信条であり、パウロはそれを紀元36~39年に受け取ったという説が有力です(記事「イエスは本当に復活したのですか(2)4つの事実」参照)。そのため、時代的に近い証言であるという意味でも重要です。

教会の迫害者であったパウロが、キリスト教の宣教師となったことは史実です。この人生の大きな変化のきっかけになったのは、復活したイエスに出会ったことであると、「使徒の働き」の著者ルカも、パウロ本人も語っています。この証言は、イエスの復活を裏付けるきわめて重要な歴史的証拠となっています。

結論

今回は、復活したイエスに出会ったと証言した人々の人生が、その前後で一変したという史実を検証しました。イエスの復活に関連する3つ目の史実です。その中で、イエスの初期の弟子たち、イエスの兄弟ヤコブ、使徒パウロの人生が、復活のイエスに会ったことを証言した前後で、まったく変えられていることを確認しました。そのため、復活のイエスに会ったという彼らの証言には、真実味があります。

このような変化は、歴史上の人物である使徒のような人たちだけが体験したことではありません。復活のイエスに会って人生が変えられるという体験は、今も起こっていることです。もちろん、今、復活したイエスを肉の目で見ることはありません。しかし、今も、聖書のことばや教会を通して、いわば霊の目でイエスに会うという体験をした人がたくさんいます。それがクリスチャンです。恐れる者が勇敢な者に変えられ、神を疑う者が信じる者に変えられ、キリストに敵対する者がキリストに従う者に変えられるという体験は、今も起こっていることなのです。

この記事を読んでくださっているあなたも、復活したイエスに出会い、人生が変えられる体験をすることができるようにお祈りいたします。

次回は、イエスの復活に関連する4つ目の事実「イエスの墓は空になっていた」という点について検証します。

付録

A. ローマのヒッポリュトス

ローマのヒッポリュトス(170年頃~235年頃)は、教会教父エイレナイオスの弟子。2世紀後半~3世紀前半の教会指導者。

ヒッポリュトスは、十二使徒の殉教について次のように語っています。

十二使徒について ― 十二使徒がどこで宣教し、どこで最期を迎えたか

1.ペテロは、ポントス、ガラテヤ、カッパドキア、ベタニア、イタリア、アジアにおいて福音を宣べ伝え、その後、ローマでネロによって十字架にかけられた。彼は自ら望んで、頭を下にした姿でその苦難を受けたのである。

2.アンデレは、スキタイ人およびトラキア人のもとで宣教し、アカイアの町パトラで、オリーブの木に掛けられて磔刑に処せられた。彼はそこに葬られた。

3.ヨハネはアジアで活動したが、ドミティアヌス帝によってパトモス島へ流され、そこで福音書を著し、また黙示録の幻を見た。トラヤヌス帝の時代にエペソで眠りについた。エペソではヨハネの遺骸が探し求められたが、発見されることはなかった。

4.ヨハネの兄弟ヤコブは、ユダヤで宣教していた時に、領主ヘロデによって剣で殺され、そこに葬られた。

5.ピリポは、フリュギアで宣教し、ドミティアヌス帝の時代にヒエラポリスで頭を下にして十字架にかけられ、そこに葬られた。

6.バルトロマイは、インド人のもとで宣教し、マタイによる福音書を彼らに与えた。彼は頭を下にして磔刑に処せられ、大アルメニアの町アラヌムに葬られた。

7.マタイは、ヘブライ語で福音書を書き、これをエルサレムで公にし、パルティアの町ヒエレスで眠りについた。

8.トマスは、パルティア人、メディア人、ペルシア人、ヒュルカニア人、バクトリア人、マルギアナ人のもとで宣教し、インドの町カラメネにおいて、松の槍によって身体の四肢を貫かれて殺され、そこに葬られた。

9.アルパヨの子ヤコブは、エルサレムで宣教していた際にユダヤ人によって石打ちにされ、神殿の傍らに葬られた。

10.レビとも呼ばれるユダは、エデッサの人々およびメソポタミア全土で宣教し、ベリュトスにおいて眠りにつき、そこに葬られた。

11.熱心党員シモン、すなわちクロパの子でユダとも呼ばれる者は、義人ヤコブの後を継いでエルサレムの監督となり、百二十歳で眠りにつき、そこに葬られた。

12.マッテヤは、七十人の一人であったが、十一使徒とともに数えられ、エルサレムで宣教し、眠りについてそこに葬られた。

13.パウロは、キリストの昇天の一年後に使徒職に加えられ、エルサレムを起点として、イリュリクム、イタリア、さらにスペインに至るまで、三十五年間にわたって福音を宣べ伝えた。ネロ帝の時代にローマで斬首され、そこに葬られた。

On the Twelve Apostles: Where Each of Them Preached and Where He Met His End: 1. Peter preached the Gospel in Pontus, and Galatia, and Cappadocia, and Betania, and Italy, and Asia, and was afterwards crucified by Nero in Rome with his head downward, as he had himself desired to suffer in that manner. 2. Andrew preached to the Scythians and Thracians, and was crucified, suspended on an olive tree, at Patrae, a town of Achaia; and there too he was buried. 3. John, again, in Asia, was banished by Domitian the king to the isle of Patmos, in which also he wrote his Gospel and saw the apocalyptic vision; and in Trajan’s time he fell asleep at Ephesus, where his remains were sought for, but could not be found. 4. James, his brother, when preaching in Judea, was cut off with the sword by Herod the tetrarch, and was buried there. 5. Philip preached in Phrygia, and was crucified in Hierapolis with his head downward in the time of Domitian, and was buried there. 6. Bartholomew, again, preached to the Indians, to whom he also gave the Gospel according to Matthew, and was crucified with his head downward, and was buried in Allanum, a town of the great Armenia. 7. And Matthew wrote the Gospel in the Hebrew tongue, and published it at Jerusalem, and fell asleep at Hierees, a town of Parthia. 8. And Thomas preached to the Parthians, Medes, Persians, Hyrcanians, Bactrians, and Margians, and was thrust through in the four members of his body with a pine spear at Calamene, the city of India, and was buried there. 9. And James the son of Alphaeus, when preaching in Jerusalem, was stoned to death by the Jews, and was buried there beside the temple. 10. Jude, who is also called Lebbaeus, preached to the people of Edessa, and to all Mesopotamia, and fell asleep at Berytus, and was buried there. 11. Simon the Zealot, the son of Clopas, who is also called Jude, became bishop of Jerusalem after James the Just, and fell asleep and was buried there at the age of 120 years. 12. And Matthias, who was one of the seventy, was numbered along with the eleven apostles, and preached in Jerusalem, and fell asleep and was buried there. 13. And Paul entered into the apostleship a year after the assumption of Christ; and beginning at Jerusalem, he advanced as far as Illyricum, and Italy, and Spain, preaching the Gospel for thirty-five years. And in the time of Nero he was beheaded at Rome, and was buried there.” ― Roberts, Donaldson, and Coxe, eds. and trans., The Ante-Nicene Fathers, Fathers of the Third Century: Hippolytus, Cyprian, Novatian, Appendix [ECF 1.5.0.2.3.0]

B. テルトゥリアヌス

テルトゥリアヌス(160年頃~220年頃)は、2世紀の教会教父、キリスト教神学者。ラテン教父の最初の一人。西方教会の思想形成に大きな影響を与えました。

テルトゥリアヌスは、『サソリに対する薬について』という著書の中で、パウロとペテロの殉教について記しています。

パウロが斬首された事実は、彼ら自身の血で書き記されている。もし異端者が公的な記録で確認したいのなら、[ローマ]帝国の公文書がそう語っているし、エルサレムの石もまた証言するだろう。歴代皇帝の伝記を読むと、興りつつあった信仰をローマで最初に血で汚したのはネロである。当時、ペテロはほかの人に帯を締められ、十字架につけられた。その後、パウロはローマ市民にふさわしい新しい誕生を体験した。つまり、ローマで殉教することで、新たないのちへとよみがえったのである。

That Paul is beheaded has been written in their own blood. And if a heretic wishes his confidence to rest upon a public record, the archives of the empire will speak, as would the stones of Jerusalem. We read the lives of the Caesars: At Rome Nero was the first who stained with blood the rising faith. Then is Peter girt by another, when he is made fast to the cross. Then does Paul obtain a birth suited to Roman citizenship, when in Rome he springs to life again ennobled by martyrdom. ― Tertullian, Scorpiace, 15, in Roberts, Donaldson, and Coxe, eds. and trans., The Ante-Nicene Fathers.

MEMO
文中の「ペテロはほかの人に帯を締められ」という言葉は、イエス・キリストがペテロに語った「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」(ヨハネ21:18)という言葉を念頭に置いたものです。

C. ローマのクレメンス

ローマのクレメンス(紀元30年頃~101年頃)は、教会時代初期のローマ司教。教会教父の中でも、使徒から直接教えを受けたとされる使徒教父の一人。使徒ペテロの直弟子と言われ、ペテロによってローマの司教に任命されたと言われています。

1世紀末に執筆された『クレメンスの第一の手紙』には、ペテロとパウロの殉教について次のように記されています。

ねたみやそねみのために、最も偉大で義なる柱たちは迫害され、死に至るまで戦い抜いた。われわれは、良い使徒たちを目の前に思い浮かべよう。ペテロは、よこしまなねたみのゆえに、一度や二度ではなく、多くの苦難を耐え忍んだ。そして、証しを立て、ふさわしい栄光の場所へと旅立ったのである。ねたみと敵対心の中で、不屈のパウロは栄冠を目指した。七度鎖につながれ、追放され、石で打たれ、東方でも西方でも宣べ伝え、全世界に義を教え、日が沈む地の果てまで及び、その信仰にふさわしい栄誉を受けた。そして、支配者たちの前で証しをした。このように、パウロはこの世から解放され、聖なる場所へと旅立ったのである。パウロは、忍耐の偉大な模範となった。

Because of envy and jealousy, the greatest and most righteous pillars have been persecuted and contended unto death. Let us set the good apostles before our eyes. Peter, who because of unrighteous envy endured, not one or two, but many afflictions, and having borne witness went to the due glorious place. Because of envy and rivalries, steadfast Paul pointed to the prize. Seven times chained, exiled, stoned, having become a preacher both in the East and in the West, he received honor fitting of his faith, having taught righteousness to the whole world, unto the boundary on which the sun sets; having testified in the presence of the leaders. Thus he was freed from the world and went to the holy place. He became a great example of steadfastness. ー First Clement 5:2–7

D. アレキサンドリアのクレメンス

アレキサンドリアのクレメンス(150年頃 〜 215年頃)は、2世紀末〜3世紀初頭に活動した初期キリスト教の神学者、教会教父。ギリシア哲学とキリスト教信仰の統合を本格的に試みた最初期の人物の一人。

D.1 ヤコブの殉教

アレキサンドリアのクレメンスは、二人のヤコブの殉教について次のように語っています(エウセビオス『教会史』に引用されている言葉)。

ヤコブという人物は二人おり、一人は[神殿の]塔から突き落され、縮絨工(しゅくじゅくこう)の棒で[めった]打ちにされて死んだ義人[のヤコブ]であり、もう一人は打ち首にされた[ヤコブ]である。― エウセビオス(秦剛平訳)『教会史(上下巻合本版)』(講談社、2022年)Kindle版、第II巻(1)

D.2 ヤコブのエルサレム教会監督就任

エウセビオス『教会史』に引用されているアレキサンドリアのクレメンスの言葉では、ヤコブについて次のように言われています。

救い主が天に上げられた後、ペテロとヤコブとヨハネは、救い主からすでに名誉を与えられていたので、その栄誉を争うようなことはせず、義人ヤコブをエルサレムの監督に選んだ。― エウセビオス(秦剛平訳)『教会史(上下巻合本版)』(講談社、2022年)Kindle版、第II巻(1)

E. タキトゥス

コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus、紀元55年頃~120年頃)は、帝政期ローマの政治家、歴史家。

タキトゥスは、2世紀初頭に書かれた著書『年代記』に、紀元1世紀のキリスト教徒に対する迫害について次のように記しています。

(ローマの大火は皇帝ネロの命令だという噂が消えなかったので)ネロは、噂を打ち消すため、その数の多さのために憎まれていたクリスチャンと呼ばれる人々に罪を着せ、最も残酷な拷問で罰した。クリスチャンという名の元になったクリストス(キリスト)は、ティベリウス帝の治世下でユダヤの総督を務めていたポンテオ・ピラトの手によって極刑に処された。この忌まわしい迷信は、ひとときは抑え込まれたものの、この害悪が生まれたユダヤ地方だけでなく、世界のあらゆる地域から忌まわしく恥ずべきものが集まり流行するローマでも勢力が拡大していた。そこでまず、自ら罪を認めた者たちが逮捕され、その後、彼らの供述に基づき、膨大な数の者が有罪判決を受けた。それは都市放火の罪というより、むしろ人類に対する憎悪の罪であった。彼らの死にはあらゆる種類の嘲笑が加えられた。獣の皮を着せられ、犬に引き裂かれて死ぬ者もいれば、十字架に釘づけにされる者もいた。あるいは火刑に処され、日が暮れた後、夜の灯火として燃やされた者もいた。

Consequently, to get rid of the report, Nero fastened the guilt and inflicted the most exquisite tortures on a class hated for their abominations, called “Chrestians” by the populace. Christus, from whom the name had its origin, suffered the extreme penalty during the reign of Tiberius at the hands of one of our procurators, Pontius Pilatus, and a most mischievous superstition, thus checked for the moment, again broke out not only in Judaea, the first source of the evil, but even in Rome, where all things hideous and shameful from every part of the world find their centre and become popular. Accordingly, an arrest was first made of all who pleaded guilty; then, upon their information, an immense multitude was convicted, not so much of the crime of firing the city, as of hatred against mankind. Mockery of every sort was added to their deaths. Covered with the skins of beasts, they were torn by dogs and perished, or were nailed to crosses, or were doomed to the flames and burnt, to serve as a nightly illumination, when daylight had expired. ― Tacitus, Annals, 15.44 (https://www.livius.org/sources/content/tacitus/tacitus-on-the-christians/)

F. 小プリニウス

小プリニウス(紀元61年頃~113年頃)は、帝政ローマの文人、政治家。父の死後、母方の叔父である博物学者、政治家、軍人のプリニウス(大プリニウス)の養子となりました。叔父との区別のため、小プリニウスと呼ばれます。

小プリニウスは、ローマの属州の総督であった時に、皇帝トラヤヌスに宛てて書いた書簡(西暦112年)で、クリスチャンに対する迫害について書き記しています。この書簡は「クリスチャン」と名乗っているだけで処刑された最古の記録となっています。

私は、彼らがクリスチャンであるかどうかを問いただしました。そうだと認めた者には、二度、三度と本当かと問い詰め、処罰をもって脅しました。それでも主張を撤回しない者は処刑するよう命じたのです。というのも、彼らの信仰の内容がどのようなものであれ、頑固さと融通の利かない強情さは、確かに処罰に値すると確信していたためです。……これに対し、クリスチャンであること、また過去にクリスチャンであったことを否定した者については、私の指示した言葉で神々に祈り、香とぶどう酒を皇帝陛下の像に供えて祈りをささげ……さらにキリストを呪うなら……こうした者については、釈放すべきであると判断しました。

I interrogated these as to whether they were Christians; those who confessed I interrogated a second and a third time, threatening them with punishment; those who persisted I ordered executed. For I had no doubt that, whatever the nature of their creed, stubbornness and inflexible obstinacy surely deserve to be punished …. Those who denied that they were or had been Christians, when they invoked the gods in words dictated by me, offered prayer with incense and wine to your image … and moreover cursed Christ … these I thought should be discharged. ― Pliny the Younger Letters 10.96-97, as cited in Roman Civilization: Selected Readings, 3rd ed., ed. Naphtali Lewis and Meyer Reinhold, vol. 2 (New York: Columbia University Press, 1990), 551-53.

G. スエトニウス

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス(70年頃~140年頃)は、ローマ帝国の五賢帝時代に活動した歴史家、政治家。カエサル、そしてアウグストゥス帝からドミティアヌス帝の時代までの11名のローマ皇帝、計12名の伝記『ローマ皇帝伝』の著者として知られています。

スエトニウスは、クリスチャンに対する迫害について次のように語っています。

クリスチャンたち、つまり新しい有害な迷信に傾倒していた人々に対して、刑罰が与えられた。

Punishment was inflicted on the Christians, a class of men given to a new and mischievous superstition. ― J. C. Rolfe, Suetonius, The Lives of the Twelve Caesars (London, 1913-14)

H. ヨセフス

ヨセフス (紀元37年~100年頃)は、 帝政ローマ期のユダヤ人政治家、歴史家。

ヨセフスは、イエスの兄弟ヤコブについて著書『ユダヤ古代誌』に次のように書き記している。

彼[大祭司アナヌス]はフェストスが死に後任のアルビノスがまだ赴任の途中にあるこのときこそ絶好の機会と考えた。そこで彼はスュネドリオン[サンヘドリン]の裁判官たちを召集した。そして彼はクリストス(キリスト)と呼ばれたイエスス(イエス)の兄弟ヤコボス(ヤコブ)とその他の人びとをそこへ引き出し、彼らを律法を犯したかどで訴え、石打ちの刑にされるべきであるとして引き渡した。ー フラウィウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ古代誌6』(筑摩書房、2000年)Kindle 版

I. ヘゲシップス

ヘゲシップス(Hegesippus、紀元110~180年)は、初期キリスト教の著作家であり、ユダヤ人の回心者であったと言われています。ヘゲシップスの著作は失われて現存しませんが、エウセビオスの『教会史』に引用文として一部残されています。

主の兄弟ヤコブは、使徒たちとともに教会を継承した。彼は、主のときからわたしたち[の時代]までのすべての人びとから義人と呼ばれた。ヤコブという名の人物が大ぜいいたからである。― エウセビオス(秦剛平訳)『教会史(上下巻合本版)』(講談社、2022年)Kindle版

J. エウセビオス

カエサレアのエウセビオス(263年頃~339年)は、ギリシア教父の一人であり、歴史家、聖書注釈家。紀元314年前後からパレスチナの司教(主教)を務め、正典の確定にも関っています。代表作『教会史』により「教会史の父」として知られています。

彼らは、ヤコブを[人々の]中に引きずり出すと、すべての民の前で、キリストへの信仰を否認するように要求した。しかし、彼がすべての人々の予想に反し、はっきりした声と意想外の勇気によって、すべての群衆の前で、わたしたちの救い主にして主であるイエスが神の子である、と告白した。すると、彼らはこの男の証しにもはや耐えることができなくなった。彼が哲学と経験の生活によって達した高みのために、すべての者からもっとも義(ただ)しい人物と見なされていたからである。そこで彼らは彼を殺した。ユダヤでフェストが死に、統治する政府も総督もなくなった無政府状態のそのときを権力[行使]の機会に利用したのである。 ― エウセビオス(秦剛平訳)『教会史(上下巻合本版)』(講談社、2022年)Kindle版、第II巻「主の兄弟ヤコブについての証言」

K. ポリュカルポス

ポリュカルポス(紀元69年頃~155年頃)は、スミルナの主教(司教、監督)であり、 使徒たちから直接教えを受けた使徒教父です。殉教者として死んだと言われています。

ポリュカルポスは、ピリピの教会に次のような手紙を書き送っています。

それゆえ、私はあなたがたすべてに勧めます。義の言葉に従い、あらゆる忍耐を働かせなさい。あなたがたは、祝福されたイグナティオス、ゾシモス、ルフォス、またあなたがたの中から出た人々、さらにパウロ自身やほかの使徒たちの忍耐を、その目で見たではありませんか。私は確信しています。この人々は、むなしく走ったのではなく、信仰と義によって走り抜き、今や、主の御前にあって、ふさわしい場所にいるのです。主と共に、彼らは苦しみも受けたのです。彼らは、この世ではなく、私たちのために死に、また私たちのために神がよみがえらせてくださった方を愛したからです。

I exhort you all therefore to be obedient unto the word of righteousness and to practice all endurance, which also ye saw with your own eyes in the blessed Ignatius and Zosimus and Rufus, yea and in others also who came from among yourselves, as well as in Paul himself and the rest of the Apostles; being persuaded that all these ran not in vain but in faith and righteousness, and that they are in their due place in the presence of the Lord, with whom also they suffered. For they loved not the present world, but Him that died for our sakes and was raised by God for us. ― The Epistle of Polycarp to the Philippians (Translated by J.B. Lightfoot), Chapter 9 (https://www.christian-history.org/polycarps-philippian-epistle.html)

参考資料

  • Gary R. Habermas and Michael R. Licona, The Case for the Resurrection of Jesus (Kregel, 2004)
  • Gary R. Habermas, On the Resurrection, Volume 1: Evidences (B&H Academic, 2024)
  • John C. Lennox, Gunning for God: Why the New Atheists Are Missing the Target (Lion Hudson, 2011), Chapter 8 “Did Jesus Rise from Dead?”
  • Lee Strobel, Is God Real? (Zondervan, 2023), Chapter 4 “Easter Showed That Jesus is God”
  • Lee Strobel, The Case for Easter: A Journalist Investigates Evidence for the Resurrection (Zondervan, 2009)
  • Titus Kennedy, Excavating the Evidence for Jesus (Harvest House Publishers, 2022), Chapter 8, “The Burial, Tomb, and Resurrection of Jesus”

写真:Gary Todd (CC0)

脚注

  1. 『詳説世界史』(山川出版社、2015年)P.47~48

  2. Sean McDowell, “The Real Story of How the Apostles Died” (https://www.youtube.com/watch?v=nIBrHrqZdTM)

  3. Origen, Contra Celsum, 2.77 in Roberts, Donaldson, and Coxe, eds. and trans., The Ante-Nicene Fathers as cited in Habermas and Licona, The Case for the Resurrection of Jesus

  4. Gerd Lüdemann, What Really Happened to Jesus? A Historical Approach to the Resurrection, John Bowden, trans. (Louisville: Westminster John Knox, 1995), 80. as cited in Habermas and Licona, The Case for the Resurrection of Jesus

  5. In an interview by Peter Jennings in The Search for Jesus (American Broadcasting Corp. [ABC], July 2000). as cited in Habermas and Licona, The Case for the Resurrection of Jesus

  6. Michael Licona, The Resurrection of Jesus: A New Historiographical Approach (IVP Academic, 2010) cited in Sean McDowell, “Did the Apostles Really Die as Martyrs for their Faith?” (https://www.biola.edu/blogs/biola-magazine/2013/did-the-apostles-really-die-as-martyrs-for-their-f)

  7. Reginald H. Fuller, The Formation of the Resurrection Narratives (New York: Macmillan, 1980), 37 as cited in Habermas, On the Resurrection, Volume 1: Evidences

  8. Hoover, “Contest between Orthodoxy and Veracity,” 129 (see chap. 10, n. 56), 130–31. as cited in Habermas, On the Resurrection, Volume 1: Evidences

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