聖書が語る「死後の世界」(5)天国はどのような場所か(中編)

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前回の記事に続いて、今回も天国はどのような場所であると聖書に記されているかを紹介します。前回の記事は、こちらで読むことができます。

3. 永遠の都

「2.永遠の故郷」で紹介した聖句の最後には、「神が彼らのためにを用意されたのです」という言葉がありました(ヘブル11:16)。この「都」については、同じ文脈で少し前に書かれている箇所で、次のように言われています。

10 (アブラハムは)堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。(ヘブル11:10)

この都については、聖書の別の箇所でも「生ける神の都である天上のエルサレム」(ヘブル12:22)、「上にあるエルサレム」(ガラテヤ4:26)などのように言及されています。この天にある都が、人が心のどこかで求めている帰るべき故郷なのです。

この都とは、もう少し踏み込んで言うと、新天新地の時代に天から下ってくる「新しいエルサレム」のことです。天上にあった都が新天新地の時代に下ってくるためです。この都については前回にも少し紹介しましたが、具体的にどのようなものかについては、ヨハネの黙示録に詳しく記されています(黙示録21:1~22:5)。たとえば、黙示録21:11、19、21では次のように言われています。

11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。 … 18 都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。 19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド … 21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。 

ここで言う「神の栄光」とは、ユダヤ人が「シャカイナグローリー」と呼ぶもので、神の臨在に伴う光です。この光の輝きは「透き通った碧玉のようであった」と言われています。碧玉は宝石の一種で、古代の宝飾品に使われ、古代日本の勾玉(まがたま)にも使われています。碧玉は実際に都の城壁として使われているので、碧玉に輝く光はシャカイナグローリーが城壁に反射した光なのかもしれません。

この都は、土台石が宝石、大通りがガラスのように透き通った純金、門が真珠で造られている言われています。ガラスのように透き通った純金とは想像するのが難しいのですが、神が再創造した被造物の一部なのでしょう。いずれにしても高価な材料ばかりで、通常は建築材料として使われるようなものではありません。これは神が無限の富を持っておられることを象徴しています。

これに似た表現は、旧約聖書でも使われています。イスラエル全盛期の王、ソロモンが所有していた富の豊かさを伝えるために、次のような表現が使われています。

27 王はエルサレムで銀を石のように用い、杉の木をシェフェラのいちじく桑の木のように大量に用いた。(2歴代誌9:27)

銀は貴金属、杉の木は当時の高級建材で、いずれも高価なものです。一方、石といちじく桑は安価な材料の代表格です。この銀と杉の木を、石やいちじく桑のようにふんだんに使ったと言うことで、ソロモン時代の豊かさを表現しているわけです。これと同じことが、黙示録21章にも言えます。この箇所の記述から、天の都の豊かさを推し量ることができます。

いのちの木

この都についてもう一つ特筆すべき点は、エデンの園にあった「いのちの木」があるということです。

1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。(黙示録22:1~2)

このいのちの木は、神が「人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創世記3:22)と言って、人が近付くことができないようにされたものです。

この「いのちの木」があるということは、新しいエルサレムでは、人が一度遠ざけられたいのちの木から実を取って食べ、永遠に生きられるようになるということです。ここでは、神と人が共に暮らしていたエデンの園が回復されることが預言されています。

4. 永遠の住まい

イエスは有名な「最後の晩餐」の席で、弟子たちに次のように言われました。

2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。… 3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:2~3)

もうすぐ自分は天に上ることになるが、あなたがたの住まいを用意すれば迎えに来るので、平安を失ってはならないというイエスの言葉です。ここでいう「わたしの父の家」とは、天のことです。天には父なる神の王座があるためです。ここに「住む所」を用意したら、イエスは弟子たちを迎えに来るというのです。この「場所」とは、「天上のエルサレム」「新しいエルサレム」にあると考えられます。イエスは、この都に、弟子たちを迎えると語っておられるのです。

この住まいは、キリストが一人ひとりの弟子のために用意されるものです。この弟子には、当時の弟子たちだけでなく、すべての時代の弟子が含まれます。そのため、今に生きるキリストの弟子一人ひとりにも用意されています。

現代の日本では独居老人が増え、孤独を感じて暮らしている人も多いと思います。しかし、そのような孤独は天国にはありません。キリストご自身が、「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」と語り、一人ひとりをご自分が用意された場所に住まわせてくださるためです。

肉体の住まい

天国には別の「住まい」もあります。使徒パウロは次のように語っています。

1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 2  私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。 3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。 … 6 …肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。… 8 … むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。(2コリント5:1~3、6、8)

ここで「地上の住まいである幕屋」とは地上の肉体、「天から与えられる住まい」とは神から与えられる復活の体、あるいは天で与えられる体を指しています。この「住まい」が住居ではなく体を指していることは、「住まいを着たい」「幕屋を脱いだ」「肉体を住まいとしている」といった表現から明らかです。ここでわかることは、私たちは最終的には天国で新しい復活の体、完全な体を受けて生きるということです。聖書では次のように言われています。

42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、 44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(1コリント15:42~44)

この箇所からわかるように、血肉の体はいつか死にますが、天国では復活の体をいただいて生きることになります。復活の体をいただいて、キリストが用意された住まいに住むというのが、天国に召された者に対する聖書の約束です。

5. 永遠の富

地上と同じく、天にも富があります。イエス・キリストは次のように語っておられます。

19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。 20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。(マタイ6:19~20)

この聖句は、地上で与えられたものをどう使うかを教えたものです。地上で与えられたものを神のみこころに従って用いることで、天に宝を積むことになるという教えです。天に宝を積んだ人は、天国に迎え入れられた時に、地上から天に貯えてきた富にも迎えられることになります。この富は劣化することも奪われることもない、永遠の富です。

資産

天国に住む人は、神の資産を受け継ぐ相続人でもあります。聖書では次のように言われています。

3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は…朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。(1ペテロ1:3~4)

これ以外にも、神に召された人は「神による相続人」(ガラテヤ4:7)であり、「約束された永遠の資産を受け継ぐ」(ヘブル9:15)と言われています。

この資産とはどのようなものか、詳しいことは書かれていません。しかし、新しいエルサレムの描写を読めば、神が用意しておられる資産がどれほど豊かなものであるかを推し量ることができます。

6. 神の家族

天には神がおられるだけではありません。聖書は、次のような集団が天で私たちを迎えてくれると語っています。

22 …あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、 23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、 24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(ヘブル12:22~24)

この箇所を見ると、天では以下の集団が私たちを迎えてくれることがわかります。

  • 天使(22節「無数の御使いたち」)
  • クリスチャン(23節「教会」)
  • 旧約聖書の時代に神を信じて生きた人々(23節「義人たちの霊」)
  • 父なる神(23節「神」)
  • 子なる神(24節「イエス」)

MEMO:最後に記されているのが、「イエスの血」です。これについては次の項目で説明します。

天国にはこのような仲間がいるので、孤独ではありません。また、次のようなキリストの言葉があります。

「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイ12:50) 

この言葉によると、天国にいる人々はすべて神の家族です。そのため、天国には孤独な人が一人もいないのです。

地上の家族は?

天国に行ったら、地上の家族との関係はどうなってしまうだろうかと思う方がおられるかもしれません。聖書では次のように言われています。

15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。(エペソ3:15)

ここでは、天上の家族も、地上の家族も、すべて父なる神のもとで家族であると言われています。そのため、天国に行っても、地上の家族との関係が解消されるわけではありません。むしろ、すべての人の父である神のもとで、家族のような絆が神の子どもたちの間に広がっていくと考えられます。

ただ、今家族との関係がうまくいっていない人の場合はどうなるのでしょうか。自分と家族が天国に行っても、同じような関係が続くのでしょうか。聖書は、そうはならないと教えています。天国では「御霊に属するからだによみがえらされる」(1コリント15:44)ためです。人にはアダムの「原罪」が宿っていて、生まれつき罪を犯す性質を持っています。しかし、復活の体は原罪がない「御霊の体」です(1コリント15:44))。そのため、すべての人が次のような「御霊の実」を豊かに付けた人になります。

22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、自制です。(ガラテヤ5:22)

天国では、あなたも相手も人格が完成されていることを覚えていてください。

7. イエスの血

先ほど見た聖句(ヘブル12:22~24)の最後に記されていたのが、「イエスの血」です。天にあるもののリストにイエスの血が最後に記されていたのは、人が天国に入ることを可能にしたものがイエスの血だからです。聖書にはこう記されています。

11 キリストは、12 …ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。(ヘブル9:11~12)

この「聖所」というのは、地上の神殿ではなく、天そのものを指しています。同じ書(ヘブル人への手紙)の別の箇所で、次のように言われているためです。

24 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。(ヘブル9:24)

旧約聖書の時代、祭司が神殿の聖所に入るには、動物のいけにえの血が必要でした。しかも、この動物の血は、毎年ささげる必要がありました。しかし、キリストは、十字架上で人の罪のために死んでくださり、ご自分の血を携えてただ一度天の聖所に入られることで、すべての人がキリストを通して天国に入る道を開いてくださいました。キリストの犠牲によって、人々の罪に対する代価が支払われ、キリストの血によって、天の聖所がきよめられたためです。これがキリストによる「永遠の贖い」の意味です。そのため、私たちは「イエスの血によって大胆に聖所に入る」(ヘブル10:19)ことができるのです。

まとめ

以上で、天国にある以下の7つのものを通して、天国がどのような場所であるかを見ました。

  1. 神の王座
  2. 永遠の故郷
  3. 永遠の都
  4. 永遠の住まい
  5. 永遠の富
  6. 神の家族
  7. イエスの血

このような天国に関するすばらしい約束が与えられていると知っても、にわかには信じられない方もいるでしょう。しかし、天国の約束は、キリストが十字架にかかって以降の二千年間、聖書によって語り続けられてきたものです。キリストは、ご自分の言葉を信じるようにと、次のように弟子たちに念押ししておられます。

1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。 3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:1~3)

以上で紹介してきた「天にあるもの」は、聖書に記されている天国の描写の一部にしか過ぎません。しかも、聖書には天国のすべてが啓示されているわけはないのです。聖書ではこう言われています。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである (1コリント2:9、新改訳第三版)

この言葉は、神が天国で備えてくださっているものにも当てはまります。聖書に記されている天国の記述は、映画で言うと予告編のようなものです。予告編では映画のあらすじといくつかの場面を紹介しますが、映画の実際の内容は映画を見てみないとわからないようになっています。天国も同じです。あらすじがわかるようにいくつかの場面が紹介されていますが、本当のところは行ってみないとわかりません。「ガラスのように透き通る純金」がどういうものかは、実際に見てみないとわからないのです。神は、神を愛する者に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」を用意してくださっているのです。(後編に続く)

参考資料

  • アーノルド・フルクテンバウム博士(通訳:中川健一)『聖書が教える死後の世界 ― 個人的終末論 ―』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2012年)
  • Alan W. Gomes, 40 Questions About Heaven And Hell (Kregel, 2018)
  • David Jeremiah, Revealing the Mysteries of Heaven (Turning Point, 2017)
  • Randy Alcorn, Heaven (Wheaton, IL: Tyndale House Publishers, 2004)

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