> はじめにはじめに
前回の記事では、天国には「子羊のいのちの書」に名が記されている人だけが入ることができると述べました。また、「子羊のいのちの書」に記されているのは、イエス・キリストを信じて救われた人であることも確認しました。
それでは、「イエス・キリストを信じる」とは具体的にキリストについて何を信じることなのでしょうか。
福音を信じることで救われる
イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストの「福音」を信じることです。これが、聖書が教える救いの方法です。パウロは次のように明言しています。
1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。 2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。(1コリント15:1~2)
パウロは「この福音によって救われます」と述べています。では、この「福音」とは何でしょうか。続けてパウロは、福音の内容を次のように説明しています。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(1コリント15:3~5)
ここから、福音の中心的内容は次の3つであることがわかります。
- キリストが、私たちの罪のために死なれたこと
- 葬られたこと
- 三日目によみがえられたこと
これを「福音の三要素」と呼びます。
つまり、福音とは、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、3日目によみがえられたという救いの知らせです。その良い知らせを信じることで、人は救われます。
そのことを確認するように、パウロは福音を信じて救われたクリスチャンに次のように書き送っています。
私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)
福音を信じて救われた人は、天国に国籍を持つ者です。そして、その人こそが、「子羊のいのちの書」に名が記された人です。
聖書が語る救いの福音はシンプルです。もちろん、キリスト教にはほかにも多くの大切な教えがあります。しかし、救われるために信じるべき福音の核心部分は、キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、3日目によみがえられたということです。
福音が天国に入る唯一の方法であることを示す3つの特徴
では、なぜ福音が天国に入る唯一の方法なのでしょうか。ほかの宗教が語る方法ではなく、福音こそが天国に入るための唯一の道であると言えるのはなぜでしょうか。
クリスチャンにとっては、「聖書がそう語っているから」という答えで十分かもしれません。しかし、まだ聖書を信じていない方に対しては、もう少し丁寧に説明する必要があります。
そこで、福音がなぜ天国に入る唯一の道であると言えるのかを、福音の3つの特徴から考えていきます。
- 福音は行いではなく、信仰による救いを教えている
- 福音は歴史的事実に基づいている
- 福音は血による罪のきよめに基づいている
この3つの特徴を通して、福音が信頼できる救いの知らせであり、信じる者が天国に入るという約束に十分な根拠を提示していることを見ていきます。
> 1.福音は行いではなく、信仰による救いを教えている1.福音は行いではなく、信仰による救いを教えている
第一の特徴は、福音が行いではなく信仰による救いを教えているということです。パウロは、福音について次のように語っています。
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)
ここで重要なのは、「信じるすべての人に救いをもたらす」と言われていることです。福音は、人の善行や功績によって救いを得る道ではありません。神が与えてくださった救いを、信仰によって受け取る道です。パウロは次のようにも語っています。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9)
この箇所は、救いの根拠が人の側ではなく神の側にあることを明確にしています。救いは「神の賜物」です。賜物とは、努力して獲得するものではなく、与えられるものです。
また、パウロはローマ人への手紙でも次のように述べています。
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。(ローマ3:28)
「神の前に義と認められる」とは、神の法廷で「正しい者」と宣言されることです。それは、天国に入る者とされることを意味します。
律法を完全に守ることによって神の前に義と認められる人はいません。なぜなら、人は神の完全な基準に達することができないからです。人は、律法の行いによっては天国に行くことができないのです。
この原則は、新約聖書だけでなく旧約聖書にも示されています。キリスト教やユダヤ教で「信仰の父」と呼ばれるアブラハムについて、創世記は次のように語っています。
アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記15:6)
アブラハムが義と認められたのは、自分の功績によってではありません。主を信じたことによって、義と認められたのです。
したがって、福音は、人の努力によって神に近づく道ではありません。神がキリストを通して与えてくださる救いを、信仰によって受け取る道です。だからこそ、救いは確かなものとなります。なぜなら、それは不完全な人の行いにではなく、完全な神の恵みに基づいているからです。
もし救いが行いによる場合
福音は「救いは信仰による」と語っていることを見ました。では、もし逆に、救いが行いによるものである場合、どのような問題が起こるのか考えてみましょう。
問題1.善行が自己救済の手段になってしまう
第一に、行いによって救われようとすると、善行が自分の救いを確保するためのものになってしまいます。
本来、善行は神への愛と隣人への愛から出るべきものです。しかし、行いによって救われるとなると、善行が自分の救いのためのものとなり、宗教的な偽善に陥ってしまう危険性があります。
問題2.死ぬまで天国へ行ける確信を持てない
第二に、死ぬまで天国に行ける確信を持てません。
もし救いが行いの最終的な成績によって決まるなら、人は死ぬ瞬間まで不安を抱え続けることになります。死の直前に大きな罪を犯したらどうなるのか、過去に犯した罪はどうなるのか、善行は十分だったのかという不安が残ります。
この点で、救いに行いを要求する宗教と比較すると、聖書の福音の特徴がくっきりと浮かび上がります。一般的な宗教の考え方では、神への信仰とともに善行や、神への服従、戒律の実践が求められます。たとえばイスラム教には、天国に行けるかどうかは、人生で行った善行と悪行を天秤にかけて決まるという教えがあります(コーラン23:102~103など)。しかし、その審判は死後に行われるので、自分は死ぬまで結果を知ることができません。行いを基準とする宗教では、不完全な人の行いが救いの土台となるので、そのような不安定な状態に置かれることになります。
それに対し、聖書は人が神の前に義と認められる根拠は人の行いではなく、神の恵みであり、それを受け取る手段は信仰であると教えています。それゆえ、人は救いの確信を得ることができると教えています(1ヨハネ5:13)。
> 2.歴史的事実に基づいている2.歴史的事実に基づいている
第二の特徴は、福音が歴史的事実に基づいていることです。
キリスト教の信仰は、単なる精神的な慰めではありません。心の中の信仰体験だけで完結するものでもありません。福音の中心には、イエス・キリストが実際に十字架で死に、葬られ、3日目によみがえられたという歴史的出来事があります。
たとえば、山川出版の世界史の教科書ではこう教えられています。
祭司やパリサイ派はイエスをローマに対する反逆者として総督ピラトに訴えたため、彼は十字架にかけられ処刑された(30年頃)。しかしその後、弟子たちのあいだにイエスが復活し、その十字架上の死は人間の罪をあがなう行為であったとの信仰が生まれ、これを中心にキリスト教が成立した。1
このように、少なくともイエスが実在の人物であり、十字架にかけられて処刑されたこと、弟子たちがイエスの復活を信じていたことは世界史の教科書でも史実として教えられています。
パウロは、キリストの復活がなければ、キリスト教信仰そのものが空しいとして、次のように語っています。
…キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(1コリント15:14)
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。(1コリント15:17)
これは重要な発言です。パウロは「イエスが実際に復活していなくても、信仰には意味がある」とは言っていません。むしろ、キリストがよみがえらなかったなら、宣教も信仰も空しく、人の罪は赦されずに残ると語っています。
キリスト教信仰は、歴史的事実で成り立っている信仰です。キリストが本当に復活したのなら、福音は真実です。しかし、キリストが復活しなかったのなら、キリスト教信仰は成り立ちません。
ペテロもまた、こう述べています。
私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。(2ペテロ1:16)
ヨハネも同じようにこう語っています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。(1ヨハネ1:1)
「いのちのことば」とは、イエス・キリストのことです。使徒たちは、信仰を単なる内面的体験として語っていません。彼らは、自分たちが見たこと、聞いたこと、触れたことを証言しているのです。福音は、歴史の中で行われた神の救いのわざに基づいています。
もし救いが歴史的事実に基づかない場合
救いが歴史的事実に基づかない場合は、どうなるのでしょうか。
問題1.信仰が主観的なものになる
第一に、信仰が主観的なものになってしまうという問題があります。
実際に起こった出来事に基づいていない信仰は、その信仰が真実であるかどうかを検証する手がかりがありません。すると、信仰は「そう教えられたから信じる」「そう信じたいから信じる」という、客観的な事実に基づかない主観的なものになりがちです。
問題2.単なる精神的慰めになってしまう
第二に、救いが単なる精神的慰めになってしまう危険性があります。
もちろん、精神的慰めは必要です。しかし、どれほど心が慰められても、それが事実に基づいていなければ、最終的な救いにはなりません。人が本当に必要としているのは、一時的な精神的慰めではありません。神との関係を断絶させる罪と、確実に迫り来る死の問題を実際に解決する救いなのです。
この点で、たとえば浄土教における阿弥陀仏信仰と比較すると、キリスト教の特徴が明確になります。阿弥陀仏への信仰は、多くの人に深い慰めを与えてきました。しかし、阿弥陀仏は、歴史的事実の上に立っている存在ではありません。阿弥陀仏が地上で修行をしていた時代は法蔵菩薩という人物だったとされていますが、法蔵菩薩は実在の人物とは考えられていません2。阿弥陀仏は、浄土教の経典に登場する神話的な存在です。
一方、福音が宣べ伝えるのは、ナザレのイエスという歴史上の人物が、十字架で死に、葬られ、復活したという出来事です。罪と死という現実の問題を解決するには、現実に罪のない人生を生き、十字架上で死に、死者の中から復活されたイエスによる救いが必要です。
> 3.血による罪のきよめに基づいている3.血による罪のきよめに基づいている
第三の特徴は、福音が血による罪のきよめに基づいているということです。
この点を理解するには、聖書全体を流れる一貫した原則を知る必要があります。
(1)すべての人は罪を犯した
聖書は、すべての人が罪を犯したと教えています。
すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった(ローマ5:12)
よく誤解されるのですが、聖書で言う罪とは、殺人や窃盗などの犯罪だけを指すのではありません。そうした犯罪も当然含まれますが、聖書的には、罪とは神を神として認めず、神の基準から外れて生きることです。
神の基準から外れるとは、外側に現れた行動だけではありません。憎しみ、ねたみ、情欲、高慢、偽善、不信仰といった心の中の思いも含まれます。イエスは次のように語られました。
情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)
罪は、行動に現れる前に、心の中ですでに成立することがあります。それは、神が人の外側だけでなく、心をご覧になる方だからです。
人はうわべを見るが、【主】は心を見る。(1サムエル16:7)
(2)人が死ぬのは罪のためである
また、聖書は、人が死ぬのは罪のためであると語っています。
罪の報酬は死です。(ローマ6:23)
聖書は、人が死ぬようになったのは罪のためであると語っています。創世記によれば、神は人に「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告されました(創世記2:17)。しかし人は神の命令に背き、その結果、死が人類に入りました。
聖書的には、死には2つの種類があります。
- 肉体的な死。これは、魂が肉体から分離することです。
- 霊的な死。これは、人が神から切り離された状態です。
どちらも、聖書的には死とは分離を意味することがわかります。アダムは、神の命令に背いた時、肉体的には生きていましたが、霊的には死にました。そして、結局は肉体的にも死ぬことになります。
アダム以降、人は霊的に死んだ存在として生まれてくるようになりました。そして、アダムと同様、最後は肉体的にも死にます。さらに、霊的に死んだ人が肉体的にも死ぬと、永遠に神から離されることになります。聖書は、神から離れた人が行き着く先を地獄(ゲヘナ)としています。この流れを断ち切るのが、福音による救いです。
(3)罪ある者は神の前に出ることができない
聖書は、きよくない者は主を見ることはできないと教えています。
すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主(注:神)を見ることができません。(ヘブル12:14)
天国は、聖なる神がおられる場所です。そこには、罪あるままでは入ることができません。そのためには、罪が赦され、神の前にきよい者とされる必要があります。問題は、人が自分の力でそのきよさを獲得することができないということです。
(4)罪からきよめられるには血が必要
聖書は、罪が赦され、きよめられるためには「血」が必要だと語っています。
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)
これは、旧約聖書に記された次のような原則があるためです。
実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥め(なだめ)を行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ17:11)
血は、いのちを表します。罪の結果が死であるなら、罪の赦しのためには、代価としていのちが必要になります。そのため、旧約聖書の時代には罪の赦しのために動物のいけにえがささげられていました。しかし、それは最終的な解決ではなく、やがて来られるキリストのいけにえを指し示すものでした。
聖書は、キリストがただ一度、ご自身をいけにえとしてささげ、罪を取り除くために来られたと語っています。
…今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル9:26)
イエス・キリストは、すべての人の罪の赦しのために十字架上で血を流して死なれました。このイエスの血が、私たちをきよめ、天国に入ることができる者としてくださるのです。そのため、福音には「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」という告白が含まれているのです。
(5)十字架が唯一の救いの道
イエスは、十字架にかかる前日の夜、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園に来られました。聖書は、その時の様子を次のように記しています。
32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、 34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。 36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 (マルコ14:32~36)
ここで注目すべきなのは、イエスが「この杯をわたしから取り去ってください」と祈っておられることです。もし十字架以外に人を救う道があったなら、父なる神はその祈りに応えることができたはずです。しかし父なる神は沈黙され、イエスは翌日、十字架にかかられました。
この沈黙は、イエスの十字架こそが唯一の救いの道であることを物語っています。
十字架は、単なる殉教ではありません。人の罪に対する神の正義と、人を救おうとする神の愛が、同時に現された場所です。
神の正義は、罪に対する裁きを要求します。もし神が罪をただ見過ごすだけなら、神は正しい方ではなくなってしまいます。しかし、神の愛は、罪人が滅びることを望みません。このジレンマを解決するために、イエスが十字架上で死んでくださったのです。それは、十字架上で人類の罪に対する刑罰を負って神の正義を実現し、ご自分を信じるすべての人の罪を赦す救いの道を開くことで、神の愛を実現されたのです。聖書でこう言われているとおりです。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)
これが福音です。人が自分の行いによって天国に到達するのではありません。歴史の中に来られたイエス・キリストが、私たちの罪のために血を流して死に、葬られ、3日目によみがえられたことで、救いの道が開かれたのです。この血によるきよめのゆえに、福音を信じる者は救われるのです。
もし救いに血によるきよめがない場合
もし救いに血によるきよめがないなら、どうなるのか考えてみましょう。
問題1.神の正義が実現しないままになる
第一に、神の正義が実現しないままになります。
この世は、先ほど挙げた心の中の罪から殺人や強姦といった悲惨な結果を生む罪まで、罪にまみれています。罪がただ見過ごされるだけであるなら、神の愛は示されるかもしれませんが、神の正義はどこかにいってしまうことになります。罪には裁きが必要です。悪が悪として扱われなければ、神の義は実現しません。
問題2.神のもとに永遠に行くことができない
第二に、血による罪のきよめがなければ、人は神のもとに永遠に行くことができません。神は聖なる方であるためです。
罪ある人が、そのまま神の臨在に入ることはできません。罪が赦され、きよめられる必要があるのです。
問題3.内面の汚れを取り除くことができない
第三に、人の内面の汚れを取り除くことができません。
外面的な清めの儀式は、人に「きよめられた」という感覚を与えることがあります。しかし、人の心の奥にある罪、自己中心、神への反逆を取り除くことはできません。罪は、人の外側から来るものではなく、内側から出てくるものだからです。イエス・キリストは次のように語っています。
20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、 23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」 (マルコ7:20~23)
たとえば神道には、穢(けが)れを祓(はら)うという考え方があります。これは日本人にとって理解しやすい宗教的概念です。しかし、聖書が語る罪は、単なる外面的な穢(けが)れではありません。罪は内側から出てくるものだからです。したがって、罪の問題は、外面的な清めでは解決できません。この問題には、救いによって内側から生まれ変わる新生体験と、救われた者の内側に神の聖霊が住まう御霊の内住が必要です。
> 結論結論
キリストの福音は、天国に入るための十分な救いの根拠を提示しています。
第一に、福音は行いではなく信仰による救いを教えています。人の不完全な行いではなく、神の完全な恵みに基づいているからこそ、救いは確かなものとなります。
第二に、福音は歴史的事実に基づいています。キリストが十字架上で死に、葬られ、3日目によみがえられたという出来事が、救いの土台です。
第三に、福音は血による罪のきよめに基づいています。罪の赦しには血が必要であり、イエス・キリストは私たちの罪のためにご自分の血を流してくださいました。
人の罪のために十字架にかかり、血を流してくださった方は、人類史上、イエス・キリスト以外にいません。そのため、聖書はこう宣言しているのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
> 適用適用
日本人はよく、「どの道を登っても山の頂上にたどり着くように、天国にたどり着く道もいろいろあってよい」と考えます。しかし、イエスは次のように言われました。
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。(マタイ7:13~14)
日本では、キリストを信じる人は少数派です。しかし、周囲の多くがキリストを信じていないからといって、福音を信じない理由にはなりません。死後、神の前に立つとき、「周りの人が信じていなかったから、私も信じませんでした」という言い逃れはできません。イエスはすでに「いのちに至る門は狭い」と教えておられるためです。救いに関する決断は、一人ひとりが自分で行う必要があります。
イエスは、当時の人々に次のように語られました。
あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。(ルカ12:57)
このことばは、現代に生きる私たちにも語られています。
キリストは、私たちの罪のために死に、葬られ、3日目によみがえられました。この福音を信じる者は救われ、天国に迎え入れられます。このことをあなたは信じますか。

