聖書が語る「死後の世界」(11)地獄はなぜ存在するか

空

はじめに

前回に続き、今回も地獄をテーマに取り上げます。

前回は、聖書は地獄の存在を教えていることを明らかにしました。今回は、「地獄はなぜ存在するのか」を聖書的に考えてみたいと思います。

地獄は語られないテーマ

ただ、地獄に関する教えについて学ぼうとインターネットで検索してみても、ほかのテーマに比べて情報量が少ないことに気づきます。そして、検索をしていて見つかるのは、「地獄に関するメッセージが語られることが少なくなっている」というメッセージです。

シカゴ大学神学部のマーティン・マーティ教授は、1984年にハーバード大学で行われた講演で、過去1世紀、主要なキリスト教神学に関する学術誌に、地獄に関する論文は1本も掲載されていないと指摘しています1。少し前の講演なので、現在はどうかわかりませんが、キリスト教界を見渡していると、この傾向が変わったという兆しは見えません。

また、ロサンゼルス・タイムズ紙の2002年の記事2では、次のように言われています。

アメリカ各地の教会で、地獄は締め出されつつある。牧師たちが、もはや礼拝出席者の心に響かなくなったストーリーラインについて説教することを、ますますためらうようになっているからだ。……ハーバード大学神学部教授であり、著述家・宗教史家として高名なハーベイ・コックス・ジュニアは言う。「ありとあらゆる教会に何週間も通ってみればいい。地獄という言葉を耳にすることさえまれで、聞いたら驚くはずだ」

In churches across America, hell is being frozen out as clergy find themselves increasingly hesitant to sermonize on . . . a story line that no longer resonates with churchgoers. [According to] Harvey Cox Jr., an eminent author, religious historian and professor at the Harvard Divinity School, “You can go to a whole lot of churches week after week, and you’d be startled even to hear a mention of hell.”

筆者の実感では、このような傾向は日本も同じであるように思います。

教会で地獄が語られない理由はいくつもあります。まず、語るのにも聞くのにも、気が滅入ってしまうテーマです。また、次のような質問に答えるのが難しいと感じているからかもしれません。

神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか

聖書の言う地獄について語るとき、「神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか」といった質問が投げかけられることがあります。この質問に十分な答えを返せる人は少ないのではないでしょうか。私がこの記事を書いているのも、過去にこの質問を投げかけられて、うまく答えられなかったからでもあります。

これに対する一つの答えが、キリスト教弁証家のジョシュ・マクドウェルが語った以下の言葉です。

「愛の神が、どうして人を地獄に送ることができるのか」と、多くの人が言う。しかし、第一に、神はだれも地獄に送らない。地獄へ行くとすれば、それは自らの選択によるものだ。だが「愛の神が、どうして人が地獄に行くことを許せるのか」と問う人には、こう問い返したい。「では、聖く、義なる神が、どうして罪がご自身の御前に入ることを許せるのか」と。3

A lot of people say, well how can a loving God send anyone to hell? First of all God doesn’t send anyone to hell. If we go to hell, it’s by our own choice. But when somebody says to me, how can a loving God allow anyone to go to hell, I’ll turn around and say, “Well how can a holy, just, righteous God allow sin into His presence?”

「神は聖なる方であり、義なる方であるので、罪を許容できない。そのために、地獄が必要になる」という論理です。このマクドウェルの言葉を言い換えると、「神のご性質を考えれば、地獄は必要である」ということになります。

これだけではわかりにくいかもしれませんので、以下では、神が聖であり、義であると、なぜ地獄が必要になるのかを聖書的に考えていきたいと思います。また、逆説的ですが、「神は愛なる方であるので、地獄が用意されている」という視点も紹介します。そして最後に、「どうして愛の神が人を地獄に送ることができるのか」という質問に対する返答を考えてみたいと思います。

1. 神の聖

地獄が必要となる第一の理由は、神が聖なる方であるためです。

神は聖なる方

神が聖なる方であることは、聖書のさまざまな箇所で強調されています。

(御使いは)互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」(イザヤ6:3)

黙示録でも、御使い(天使)たちがこう告げています。

そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8)

「聖なる」という言葉を3つ重ねて言っているのは、強調のためです。神は罪や汚れとまったく別の次元におられる方であり、それゆえ罪と同じ場所に共存することができません。

聖なる神は罪と共存できない

このように神は聖なる神ですので、悪や罪と共存できません。次のように言われているとおりです。

あなたの目は余りにも清く、悪を見ず、悪を許しておくことができません。(ハバクク1:13。現代訳)

そのため、罪の中に生きる人は、神が治める「神の国」には入れないと言われています。

19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興*、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。(ガラテヤ5:19~21)

*「遊興」とは、今で言うと度を越した宴会のような意味の言葉です。

神の国は、神が臨在する聖なる領域です。そのため、罪を許容できない領域です。上記のような罪の中にいる人が神の国を相続できないのは、そのためです。

天国と地獄は対のもの

神の国、あるいは天国に入ることができない人は、どこに行くのでしょうか。それが、いわゆる「地獄」と呼ばれる場所です。そのため、聖書では、天国と地獄はよく対で語られています。

たとえば、世の終わりに行われるさばきでは、地上に残っている人類は、救われる「羊」の人々と、さばかれる「山羊」の人々に分けられます。そして、主は両者に次のように告げます。

こうして、この者たち(注:「山羊」の人々)は永遠の刑罰に入り、正しい人たち(注:「羊」の人々)は永遠のいのちに入るのです。(マタイ25:46)

「山羊」の人々は地獄に、「羊」の人々は天国に入るという主の宣言です。

ここでわかることは、天国と地獄の中間はない、ということです。カトリック教会の教えに「煉獄」という教えがありますが、煉獄は聖書の教えではありません。聖書的には、人は天国と地獄のいずれかに行きます。天国に入ることができない人が、地獄に行くのです。そのため、天国と地獄は対で語られることが多くなっています。

天国と地獄は、神の領域の内側と外側

天国と地獄の関係は、神の領域の内側と外側と考えることもできます。

このシリーズの天国に関する記事で、最終的な天国である「新天新地」に現れる「新しいエルサレム」は、新天新地における「至聖所」のような存在であると語りました。至聖所とは、神殿の最も奥にある部屋で、神の臨在が宿る聖なる領域です。新しいエルサレムが至聖所であれば、新天新地は「聖所」と言うことができます。聖所は至聖所に入る手前の部屋で、祭司だけが入れた場所です。どちらも入れるのは、きよめられた者だけです。そうでない者は、決して入ることができません。

聖書的には、この新しいエルサレムと新天新地に入ることができない人が行く場所が、地獄です。そのため、聖書では、地獄を表すのに「外」という表現が多く使われています。たとえば、「外の暗闇」(マタイ22:13、25:30)、「外に放り出され」(ルカ13:28)という表現です。

また、黙示録には次のような箇所があります。

14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。 15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(黙示録22:14~15)

ここでは、キリストを信じることによってきよめられ、自分の衣を洗った者は、いのちの木の実を食べて永遠のいのちを得、都に入ることができると言われています。一方、罪を犯す者は、都に入ることができず、「外」にとどめ置かれると言われています。この「外」が地獄です。

ここでわかることは、天国とは神の聖なる領域の内側であり、地獄は神の聖なる領域の外側にあるということです。

まとめ

神の「聖なる方」というご性質から、神は罪と共存できない方であり、罪人は神の聖なる領域の外に出されるということを見てきました。その結果、神の聖なる領域である天国があれば、その外に地獄も必要になるということになります。これが、「聖なる神」という神のご性質から導き出すことができる地獄の存在理由です。

2. 神の義

地獄が必要となる第二の理由は、神が義なる方であるためです。

神は義なる方

聖書では、神は義なる方、つまり正しい方であると教えられています。

主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。(申命記32:4)

神が正しい方であることは、聖書で何度も強調されています。

【主】よ あなたは正しくあられます。あなたのさばきは真っ直ぐです。(詩篇119:137)

この聖句にあるように、神の正しさは、さばきと直接結びついています。悪にさばきを下さない神を「義なる神」「正しい方」とは呼べないためです。犯罪に対してさばきの判決を下さない裁判官を「正しい裁判官」と呼べないのと同じです。

地上ですべてのさばきが行われるわけではない

神は義なる方です。しかし地上を見渡すと、悪が必ず裁かれるとは限りません。人間の司法には限界があるからです。

2025年の特殊詐欺の検挙率は、約23.6%にとどまっています4。また、時効によって、もはや逮捕して罪に問うことができない犯罪者がいます。また、無実の民を虐殺する独裁者など、法では裁けない人もいます。では、神は悪を見過ごしておられるのでしょうか。

もし地上だけを見れば、彼らは罪を犯しても「逃げ切った」ことになります。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書では次のように言われています。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

司法の目は逃れても、神の目を逃れることはできません。

 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。(ローマ2:6)

良い行いも、悪い行いも、神はその行いに応じてすべての人に報いる方だからです。

地獄は死後のさばきの後、刑罰が行われる場所

聖書は、死が人間の終わりではないと語っています。そして、人は死後にさばきを受けることも語っています。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)

さばきがあるのなら、刑を執行する場所が必要になります。裁判を行って懲役刑が言い渡されても、刑務所がないと刑を執行できないのと同じです。地獄とは、このさばきの後、罪に対する刑が執行される場所です(ただし、地獄には刑期の終わりがありません)。

まとめ

神の「義なる方」というご性質から、神は罪に対する刑罰を下さないで放置することができません。ところが、罪に対するさばきがすべて地上で行われるわけではありません。そのため、すべての罪の清算は、死後に行われます。そして、死後のさばきの後、地獄で刑が執行されることになります。これが、「義なる神」という神のご性質から導き出すことができる地獄の存在理由です。

3. 神の愛

地獄が必要となる第三の理由は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、神が愛なる方であるためです。

神は愛なる方

聖書の神が愛なる方であることは、よく知られています。聖書では、次のように言われています。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。(1ヨハネ4:16)

また、次のようにも言われています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(1ヨハネ4:8)

「神は愛である」という言葉には、神は愛のある方であるとか、神は人を愛してくださる方であるという以上の意味があります。神は愛であるとは、神の存在そのものが愛だということです。

疑問「神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか」

ここで出てくる疑問が「神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか」というものです。この疑問に答えるには、まず愛というものの性質を考える必要があります。

愛は選択である

愛は選択です。選択のないところに愛はありません。

たとえば、ロボットにプログラムを入れて「あなたを愛しています」と言わせたとしても、それは愛ではありません。愛は、自分の意思で「愛する」と選択した時に初めて成立するものだからです。

言い換えると、愛は自由意志があるところにしか生まれないということです。

神は、人間を操り人形やロボットのような存在ではなく、自由意志を持つ存在として造られました。愛の関係は、自由な選択の上にしか成り立たないためです。

人間に自由意志が与えられているということは、神を「愛する」ことを選べる一方で、神を「愛さない」ことも選べるということになります。神は、ご自身と愛の関係を結ぶように人を造られましたが、人は神の愛を拒むこともできます。自由意志が与えられているためです。

神を愛さないという選択もできる

この世界には、神を信じたくない人がたくさんいます。無神論者のトーマス・ネーゲル(Thomas Nagel)博士(ニューヨーク大学哲学・法学名誉教授)も、そのうちの一人です。ネーゲル博士は次のように語り、神を信じたくない思いを率直に告白しています。

私は単に神を信じていないというだけではない。当然、自分の信念が正しいことを望んではいる。しかしそれ以上に、神がいないことを望んでいるのだ。神に存在してほしくないし、宇宙がそのようなものであってほしくないのである(『The Last Word』オックスフォード大学出版局、1997年、130ページ)。5

“It isn’t just that I don’t believe in God and, naturally, hope that I’m right in my belief. It’s that I hope there is no God! I don’t want there to be a God; I don’t want the universe to be like that” (The Last Word, Oxford University Press, 1997, p. 130).

神は、ご自分を信じようとしない人、愛しようとしない人には、神を信じない、愛さないという選択を尊重されます。愛は強制の上には成り立たないためです。これも、神の愛の一つのかたちです。

神を愛さない人は、神のいない場所に行き着く

神を愛さない人は、神のいない場所へと行き着きます。それが地獄です。聖書では、地獄について次のように言われています。

8 主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。 9 そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(2テサロニケ1:8~9)

C・S・ルイス
C・S・ルイス(1898年~1963年)

9節の「永遠の滅び」は、地獄で受ける刑罰のことです。地獄にいる人々は、「主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられる」と言われています。つまり、地獄とは「神の臨在から遠ざけられた場所」だと言うことができます。神と交わることがない場所です。その代わりに、神の祝福も恵みもない場所です。その反対に、天国とは「神が臨在される場所」「神の祝福と恵みがあふれる場所」です。

C・S・ルイス(ケンブリッジ大学英文学教授、小説『ナルニア国ものがたり』の著者)は、地獄に行き着いてしまう人々について次のように語っています。

結局のところ、人間には二種類しかいない。神に向かって「みこころのままになりますように」と言う人と、最終的に神から「あなたの思いのとおりになるように」と言われる人である。地獄にいるすべての者は、それを自ら選んだのである。この自己選択なしには、地獄は存在しないのである。6

“There are only two kinds of people in the end: those who say to God, ‘Thy will be done,’ and those to whom God says, in the end, ‘Thy will be done.’ All that are in hell, choose it. Without that self-choice there could be no hell.”

C・S・ルイスは、ここで人類を以下の2種類に分類しています。

  • 神に「みこころのままになりますように」と言う人。神のみこころを受け入れて天国に入る人です。
  • 神から「あなたの思いのとおりになるように」と言われる人。この人は、神を受け入れることを拒み、神がおられない場所に行くことを選んだ人です。

神を受け入れたくない人を天国に無理やり入れても、その人にとっては天国とはなりません。神を拒み続けて行き着いた先が、地獄です。そのため、C・S・ルイスは「地獄の扉は内側から鍵がかかっている」7と語っています。

神の愛は聖なる愛、義なる愛

神の「愛」と言いますが、この愛は、神のその他のご性質と矛盾するものではありません。神の愛は聖なる愛であり、義なる愛なのです。

神の聖なる愛は、罪を憎みます。神の義なる愛は、罪を罰しないでおくことができません。犯罪を罰しない裁判官を「愛の人」と言えないのと同じです。そのため、神の愛と地獄は矛盾しません。

まとめ

神は愛です。そのため、神は人に、神を愛する選択も、神を愛さない選択もできるように、自由意志を与えておられます。愛は、選択なしには成立しないためです。

神を愛さない人のために神が用意されたのが、地獄です。地獄には神の臨在はありません。神を拒む人は、神のいない世界に行けるわけです。しかし、そこには神の祝福も恵みもありません。

愛は選択の自由を与えるもので、神を愛さない自由も認めるという意味では、地獄も神の愛の一つの結果であると言うことができます。

結論

地獄は、(1)神の聖、(2)神の義、(3)神の愛という、神のご性質から必要とされるものです。

地獄は神の愛と矛盾するものではありません。

「神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか」という疑問に対する返答

最後に「神が愛ならどうして人を地獄に送ることができるのか」という質問にどう返答するかを考えてみましょう。この質問には、いくつかの問題があります。

第一に、ジョシュ・マクドウェルが言ったように、神が人を一方的に「地獄に送る」ことはありません。地獄は、神を愛することを選ばなかった人が行く場所です。

神は、すべての人が救われて、天国に行くことを望んでおられます。聖書で次のように言われているとおりです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモテ2:4)

第二に、神には愛だけではなく、聖、義という性質もあるためです。これらのご性質により、罪を犯す人に対処するために地獄が必要になります。また、神の愛というご性質も、人間に選択の自由を与えるために地獄の存在を必要とします。相手の意思に反した押しつけの愛は、愛とは呼べないためです。

第三に、「人は天国に行くのが当然なのに、それを神が地獄に送っている」という誤解があります。実は、生まれながらの人は、すでに滅びの道を歩んでいます。そのため、神は人を地獄に送っているのではなく、滅びに向かっている人に福音を提示し、救いを差し伸べているというのが実際の姿です。

人はアダムの原罪を受け継いでいるので、罪の性質を持って生まれてきます。旧約聖書の詩篇で、ダビデ王が次のように語っているとおりです。

5 …私は咎ある者として生まれ

罪ある者として 母は私を身ごもりました。(詩篇51:5)

これはダビデ王だけでなく、アダムの子孫である人類すべてに言えることです。

人はアダムの原罪を受け継いでいるだけでなく、みずから罪を犯す存在です。聖書では次のように言われています。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない(ローマ3:23)

罪を犯す人は、肉体は生きていても、霊的に死んでいます(エペソ2:1、5)。霊的な死とは、いのちの源である神から人が離れて生きている状態を指します。地獄とは、死後、神から離れた状態が確定することを言います。この結果から逃れるには、福音を信じてキリストを救い主として受け入れる必要があります。ヨハネの福音書3:16では、福音が次のようにまとめられています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

「ひとり子」「御子」と言われているのは、イエス・キリストのことです。この聖句では、キリストを信じる人は一人として滅びることなく、永遠のいのちが与えられることが約束されています。これが福音です。人類は滅びに向かっていますが、滅びからの救いが提供されているのです。

なぜキリストを信じることで滅びから救われるかというと、神の聖と義が要求する私たちの罪に対する刑罰をキリストがすべて受けてくださったためです。本来は一人ひとりが負うべき刑罰を、キリストが十字架上ですべて負ってくださったのです。そして、キリストを信じる信仰によって、キリストの義が信じる者に与えられました。同時に、キリストが十字架上で流してくださった血によって、きよめられて聖なる者(聖徒)とされたのです。

神の聖、義、愛のすべてが同時に満たされる道は、キリストの十字架以外にありません。それ以外に道はないのです。

この記事を最後まで読んでくださったみなさんが、この福音によって救われることをお祈りしています。

参考資料

脚注

  1. Martin E. Marty, “Hell Disappeared. No One Noticed. A Civic Argument” as cited in John MacArthur, “The Disappearance of Hell” (https://learn.ligonier.org/articles/disappearance-hell) ↩

  2. Mike Anton and William Lobdell, “Hold the Fire and Brimstone,” Los Angeles Times, 19 June 2002 (https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2002-jun-19-me-hell19-story.html) ↩

  3. Josh McDowell and Bill Wilson, The Best of Josh McDowell: A Ready Defense (Here’s Life Publishers, 1990) as cited in https://www.christianquotes.info/quotes-by-topic/quotes-about-hell/ ↩

  4. ヨコタナオヤ「特殊詐欺の被害額が1年で98%増え、検挙件数は横ばい — 件数は30代、金額は70代」(https://isvd.or.jp/columns/fraud-damage-doubled-arrests-flat) ↩

  5. Got Questions, “How can a loving God send someone to hell?” (https://www.gotquestions.org/loving-God-send-someone-hell.html) ↩

  6. C. S. Lewis, The Great Divorce: A Dream (New York: HarperCollins, 1946, 1973), 75. ↩

  7. C. S. Lewis, The Problem of Pain (1940), ch. 8, “Hell.” ↩

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