聖書が語る「死後の世界」(6)天国はどのような場所か(パート3)

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今回は、聖書に描かれている天国がどのような場所であるか、天国に「ない」と言われているものを通して見ていきたいと思います。天国にないものを見ていくことで、天国という場所の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるためです。

天国にないもの

以下は、最終的な天国である「新天新地」と「新しいエルサレム」にないと言われているもののリストです(黙示録21~22章)。

  1. 神殿(黙示録21:22)
  2. 死、悲しみ、苦しみ(黙示録21:4)
  3. 罪人(黙示録21:8、27)
  4. 海(黙示録21:1)
  5. のろわれるもの(黙示録22:3)
  6. 太陽と月(黙示録21:23)
  7. 夜(黙示録21:25)

このリストの順に以下に詳しく見ていきます。

1. 神殿がない

神殿を最初に取り上げるのは、天国がどういう場所かを理解するための土台となるためです。黙示録にはこうあります。

22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。(黙示録21:22)

ここでは明確に「都」(新しいエルサレム)の中には神殿がないと言われています。その理由も説明されていて、「主」(父なる神)と「子羊」(キリスト)が都の神殿だから、と記されています。

神ご自身が神殿であるとすると、新しいエルサレムに神殿がないのも当然です。ただ、もう一つ、新しいエルサレムに神殿がない聖書的な理由があります。それは、新しいエルサレム自体が、神の臨在する神殿だからというものです。もう少し正確に言うと、新しいエルサレムが神殿の「至聖所」となっているためです。

至聖所とは何かを理解するには、神殿に関するモーセの律法の規定を知っておく必要があります。

神殿に関する律法の規定

至聖所は何かを理解するには、神殿の構造を知る必要があります。神殿の構造について、新約聖書の「ヘブル人への手紙」では次のように説明されています。

1 さて、初めの契約(訳注:モーセの律法)にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。 2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。 3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、 4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。 5 また、箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」をおおっていました。(ヘブル9:1~5)

ここに書かれているのは「幕屋」のことですが、幕屋も神殿も構造は同じです。幕屋とは、イスラエルの民が荒野を放浪している時に、神に命じられて作った移動式の礼拝所のことです。幕屋・神殿の構造を図にすると、次のようになります。

幕屋・神殿の構造
図1:幕屋・神殿の構造

MEMO:ヘブル9:4を見ると、金の香壇は至聖所の中にあるように思えますが、実際には聖所にありました。詳しくは出エジプト30:6を参照してください。

神殿の中心は「契約の箱」です。この契約の箱が置かれていたのが「至聖所」で、契約の箱の上にあったのが「宥めの蓋」です。5節の「ケルビム」とは、神の御座を守る最高位の御使いのことで、このケルビムの彫像が、宥めの蓋の左右にありました。契約の箱と宥めの蓋をイラストにすると、次のようになります。

契約の箱と宥めの蓋
図2:契約の箱と宥めの蓋(画像:ACイラスト)

以上が至聖所の説明です。次は、新しいエルサレムと至聖所の共通点を確認し、両者の関係を見ていきましょう。

新しいエルサレムと至聖所の共通点

新しいエルサレムと至聖所を比較すると、以下のような共通点があることがわかります。

神の御座がある

新しいエルサレムと至聖所の共通点は、神の御座があることです。新しいエルサレムには、神(父なる神)と子羊(キリスト)の御座があると記されています。

1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 2 都の大通りの中央を流れていた。… 3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、…(黙示録22:1~3)

一方、至聖所にも、神の御座がありました。契約の箱があったためです。聖書には次のような記述があります。

4 兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の【主】の契約の箱を担いで来させた。…(1サムエル4:4)

「シロ」というのはイスラエルの町の一つで、当時はこの町に幕屋がありました。ここでは、万軍の主(神)が「ケルビムに座しておられる」と言われています。ケルビムとは、先ほど見たように、契約の箱の上の「贖いの蓋」にあったケルビムの彫像のことです。聖書では、この二体のケルビムの間に、神の臨在があったと言われています。旧約聖書の出エジプト記には、次のように記されています。

わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト25:22)

ここでは、宥めの蓋の上にある二体のケルビムの間から、神がモーセ(「あなた」)に命令を語ると言われています。そのため、宥めの蓋の上に、神の臨在があったのです。つまり、至聖所にあった宥めの蓋の上には、神が臨在する御座があったということです。

立方体である

新しいエルサレムと至聖所のもう一つの共通点は、どちらも立方体だということです。

新しいエルサレムは、次のような構造になっています。

16 都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。(黙示録21:16)

「長さも幅も高さも同じ」ということは、立方体だということです。

「スタディオン」は、古代ギリシア・ローマ時代に用いられた単位で、現在の単位に直すと約185メートルです。計算すると、1万2千スタディオンは約2,220キロメートルということになります。北海道の札幌から沖縄の那覇までの距離が直線距離で約2,250キロメートルですので、日本列島がほぼすっぽり入り、日本海や朝鮮半島も含まれるような広大な面積であることがわかります。これと同じ高さがあるというのですから、途方もなく巨大な構造物であることになります。

MEMO:新しいエルサレムのサイズがあまりにも巨大であることから、これは象徴であって実際の大きさではないと言う人がいます。しかし、これが象徴であることをほのめかすような記述は聖書にはありません。そのため、これは文字どおりに受け取るべきです。天地を創造された神がなさることを人間の常識の範囲内に収めようとするのは無理な話です。

一方、神殿の至聖所も、立方体です。旧約聖書の列王記第一には、次のように記されています。

19 内殿は神殿内部の奥に、【主】の契約の箱を置くために設けた。 20 内殿の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金でこれをおおった。…(1列王記6:19)

ここでいう「内殿」が、至聖所です。この大きさが「長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビト」と言われていますので、これも立方体だったことがわかります。

MEMO:「キュビト」は古代の単位で、いくつかの説がありますが、約45センチメートルと言われています。20キュビトは、今の単位で言うと9メートル(900センチメートル)です。

聖書の中で立方体の構造物として記されているのは、至聖所と新しいエルサレムのみです。そのため、両者が同じ立方体であるのは、偶然の一致ではないはずです。

神の栄光の光がある

新しいエルサレムと至聖所の3つ目の共通点は、神の栄光が光源となっているという点です。新しいエルサレムについては、次のように言われています。

23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。(黙示録21:23)

この箇所は、新しいエルサレムでは「神の栄光」が光源になっていることを示しています。この光は、「シャカイナグローリー」と呼ばれる、神の臨在に伴って現れる現象の一つです。神の臨在に伴うシャカイナグローリーには、光だけではなく、雷、雲、角笛の音、火、煙などがあります(出エジプト19:16〜20など)。

一方、神殿の至聖所にも、シャカイナグローリーの光がありました。至聖所の手前にある「聖所」には、メノラーと呼ばれる燭台があって、光源となる灯火がありました。一方、至聖所には、光を取り入れる窓がなく、入口も分厚い幕で仕切られていたため、中は真っ暗なはずでした。しかし、そこに大祭司が年に一回入って作業することができたのは、シャカイナグローリーの光があったからだと言われています。

新しいエルサレムと至聖所の関係

新しいエルサレムと至聖所の類似点を見たところで、両者の関係について見ていきたいと思います。この点について、新約聖書の「ヘブル人への手紙」では次のように語っています。

5 …祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。(ヘブル8:5)

ここで「天にあるものの写しと影」と言われているのは、幕屋・神殿のことです。ということは、地上にあった幕屋・神殿は、天にある真の幕屋・神殿のコピーだということです。つまり、至聖所の本体は、天にあります。この本体が、おそらく新しいエルサレムです。新しいエルサレムと至聖所の共通点や、新しいエルサレムは新天新地の時代に地上に下ってくるまで天にあることを考えると、そういう結論になります。

地上にある神殿の至聖所がコピーで、天にある新しいエルサレムが本体である。これが両者の関係です。

以上のように、新しいエルサレムの本質が至聖所であると考えると、キリスト教に対してよく言われる次のような問いに、より明確に答えることができるようになります。

なぜ天国はキリストを通してでしか入れないのか

イエス・キリストは次のように教えています。

6 …わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

「父」というのは神のことです。神のおられる場所が天国ですから、この言葉は、キリストを通してでなければ天国に行けない、という意味です。

「キリストを信じないと天国に入れない」と言うと、狭い考え方だと批判されることがよくあります。しかし、新しいエルサレムが至聖所であると考えると、キリストを信じていない人が天国に入ることができないのは、聖書的に当然だと言うことができます。至聖所には、血なしには入れないというのが、聖書に記された不変の原則であるからです。新約聖書のヘブル人への手紙では、神殿での礼拝について次のように言われています。

6 さて、これらの物が以上のように整えられたうえで、祭司たちはいつも第一の幕屋に入って、礼拝を行います。 7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。(ヘブル9:6~7)

ここでは、「血を携えずに、そこ(至聖所)に入るようなことはありません」(ヘブル9:7)と言われています。地上の至聖所でさえ血を携えずに入ることはできなかったのに、天の至聖所である新しいエルサレムに血なしに入ることはできません。

しかし、天にある新しいエルサレムのきよめは、すでにキリストの血によって完了しています。上記の箇所に続いて、次のように言われています。

11 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、 12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。(ヘブル9:11~12)

キリストは、ご自分の血を携えて天の聖所(新しいエルサレム)に入り、「永遠の贖い」を完成させてくださいました。永遠の贖いとは、キリストを信じ、キリストの血によってきよめられた者に、永遠のいのちを約束するものです。永遠のいのちとは、ただ永遠に生きるだけではなく、神と共に新しいエルサレムで永遠に生きることを意味します。

新しいエルサレムで永遠を生きることの意味

至聖所の本体である新しいエルサレムで生きることの意味は、次の事実を見ていくとより明確になります。

  • かつて神殿で礼拝することを許されていたのは、全民族の中でもイスラエル民族のみだった。
  • 神殿の周囲(神殿域)で奉仕できるのは、レビ族だけだった。
  • 神殿域の中でも神殿に入ることができるのは、祭司だけだった。
  • 神殿の中でも至聖所に入れるのは、大祭司のみだった。しかも、年に一回(贖罪の日)だけだった。

世界に一人しかいない大祭司が、年に一回しか入れない至聖所の本体で、神と共に永遠に生きるというのが、新しいエルサレムで生きることの意味です。新しいエルサレムに住むということは、神殿の至聖所で暮らすことと同じです。そのため、罪ある人間が、罪あるままで新しいエルサレムに入るというのは、とうてい無理な話なのです。旧約聖書では、次のように言われています。

2 【主】はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。…(レビ16:2)

ここでは、至聖所(「垂れ幕の内側の聖所」)に規定を守らずに入る者は死ぬと警告されています。この聖句を新しいエルサレムに応用すると、罪を贖うキリストの血なしに新しいエルサレムに入ることは死を意味するということです。死後にもう一度死ぬことはできないので、この場合は「火の池」と呼ばれる地獄に送られることを意味します。そのため、聖書では火の池に送られることを「第二の死」と呼んでいるのです(黙示録20:14)。

結論

天国に入ることは、本来は罪ある人が受けるに値しない恵みです。一方、日本人は、よほど悪いことをしない限り、天国に入れると思っています。しかし、それは神と人との間に「罪」という越えがたい隔たりがあることを認識していないために起こる誤解です。罪ある人間が神に近付く唯一の方法が、血の犠牲をささげることです。「罪の報酬は死」(ローマ6:23)であり、死は死をもって贖うという原則があるためです。これは、旧約聖書と新約聖書の両方で一貫している原則です。これ以外に、神に近付く方法はありません。人間がいくら良い行いを積み重ねても、罪という隔たりを越えることはできないのです。神の目から見ると、人は「みな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のよう」(イザヤ64:6)だからです。

この意味は、ある程度の年齢を生きてきた人にはわかると思います。福音書には、こういう話があります。

3 …律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 

6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 

7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 

8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。(ヨハネ8:3~9)

年長者から一人、また一人と去って行ったという描写は実にリアルです。罪のない人などいません。罪とは、犯罪のことだけを言うのではありません。憎しみやねたみ、妻や夫以外の人に情欲を抱くなどの心の罪も含まれるためです。

しかし、罪ある私たちが天の至聖所である新しいエルサレムに入るための血の犠牲は、すでにささげられています。イエス・キリストが二千年前に、十字架上で私たちの罪のために死んでくださったためです。ヘブル人への手紙にはこうあります。

22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。 23 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。 24 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。 25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。(ヘブル9:22~25)

キリストは、ご自分の血をただ一度ささげることによって、私たちが新しいエルサレムに入り、神と共に永遠を生きる道を開いてくださいました。そして、ご自分を信じる者には、ご自分の血できよめられた義の衣を着せてくださるのです(黙示録7:14、イザヤ61:10)。大祭司が「聖なる亜麻布の長服」(レビ16:3~4)を着て至聖所に入る必要があったように、私たちも、キリストが与えてくださる義の衣を着て、天国に入る必要があるのです。

(続く)

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