キリスト教が、究極的には、筆舌に尽くしがたい慰めを与えてくれるものであるという点については、むろん、わたしも全く同感である。しかし、キリスト教は慰安から出発するものではない。それは、わたしが今までに述べてきたような衝撃から始まるのであって、この衝撃をまず通過することなしに、その慰めに到達しようとしても、全く無駄である。……真実を求めるなら、究極的に、慰めを見出すことができるだろう。しかし、慰安を求めるなら、慰安も真実も得られず――手に入るものと言えば、まずおべんちゃらと希望的観測、それから最後に絶望、ただこれだけである。
C. S. ルイス『キリスト教の精髄』(新教出版社、1977)、P.67