罪からの救いの3つの意味

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記事「聖書が語る『救い』とは」では、聖書は罪からの救いを教えていることを見ました。ただ、罪からの救いと言っても、大きく分けて以下の3つの意味があります。

  1. 罪のさばきからの救い(義認)
  2. 罪の支配からの救い(聖化)
  3. 罪そのものからの救い(栄化)

以下では、上記の「罪からの救い」の3つの意味について解説します。

罪のさばきからの救い(義認)

人は、キリストを信じた時に、罪のさばきから救われます。ローマ6:23では「罪の報酬は死です」と言われています。これは、罪のさばきとしてただ肉体的に死ぬことだけではなく、死後に苦しみの場所で永遠に過ごすことも含まれます。黙示録21:8では、これは「第二の死」と呼ばれています。

この救いは「義認」とも呼ばれます。義認とは「義と宣言する」という意味です。これは裁判官である神が、被告人である罪人に対して、無罪を宣告することです。神がクリスチャンに対して無罪を宣告する理由は、罪のないキリストが罪人の代わりに十字架にかかり、ご自分を信じる者のすべての罪を背負ってくださったからです。1ペテロ3:18では、次のように言われています。

 18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。 

キリストを信じた時点で、人は義認の救いを受けています。義認は一度きりの体験で、何度も繰り返すことはありません。そのため、クリスチャンにとっては、この救いは「過去形の救い」です。義認は、一度与えられたら失うことがありません。ローマ8:1で、次のように約束されているためです。

1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

ここで約束されていることは、クリスチャンは永遠に義認を失うことはないということです。イエスご自身も、ヨハネ5:24で次のように語っています。

24  まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 

義認によって、信じる者には永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちを失うことはありません。もし失ってしまうのであれば、「永遠」のいのちとは呼べず、「一時的」ないのちになってしまいます。イエスは、ヨハネ10:28~29でも、次のように語っています。

28  わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 29  わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 

また、ローマ8:33~34でも次のように言われています。

33  だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34  だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 

神が義と認め、キリストが守り、とりなしてくださっている者を罪に定めることは不可能です。一度受けた救いは失うことがありません。

罪の支配からの救い(聖化)

人が義認によって救われても、罪を犯さなくなるわけではありません。しかし、救われた者は、次第に罪から離れていきます。1ペテロ2:24で、次のように言われているためです。

24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。 

キリストを信じて救われた者は、罪のさばきから逃れるだけでなく、罪の支配からも解放されていきます。これも救いの一つです。罪の支配からの救いは、現在進行形の救いで、信者の生涯にわたって続くプロセスです。この救いは「聖化」と呼ばれます。2コリント3:18では、次のように言われています。

18  私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 

この箇所にあるように、聖化は聖霊(「御霊なる主」)の働きです。聖霊は、三位一体の神のおひとりです。クリスチャンは、神の働きによって、キリストに似た人格へと変えられていきます。それは、キリストを信じた者の内に、聖霊が住まれるからです(聖霊の内住)。

1ヨハネ3:9では、次のように言われています。

9  神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。 

クリスチャンは、神から生まれた者です。ここで言う「罪を犯しません」とは、罪をまったく犯さなくなることではなく(1ヨハネ1:8、10参照)、習慣的に罪を犯し続けることがないということです。聖霊の働きにより、罪から次第に遠ざかっていくからです。

救いには「義認」だけでなく「聖化」も含まれるとわかると、ピリピ2:12のような聖書箇所も正しく理解できるようになります。

12  こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

この箇所は、「救いを達成するよう努めないと救いを失うことがある」という文脈でよく引用される箇所ですが、ここでいう「救い」は義認ではなく、聖化のことです。聖化を達成するには、聖霊の働きに信者自身も協力する必要があるためです。

聖化が完成するまでクリスチャンが守られることは、ヘブル7:25で次のように約束されています。

25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。 

イエスは、信者を「完全に救う」までとりなしをしておられます。そのため、救われた信者が救いを失うことはありません。真の信者であれば、もし堕落したように見える生活に陥っていたとしても、イエスのとりなしと聖霊の働きによって正しい道に引き戻されていくはずです。

罪の存在そのものからの救い(栄化)

キリストを信じる者は、最終的に罪の存在そのものからも救われます。クリスチャンには復活が約束されており、復活の時に罪を犯すことのない栄光のからだを受けるためです。この救いは「栄化」と呼ばれます。ローマ8:29~30では、この救いを次のように約束しています。

29  神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 30  神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 

信者は、義と認められた後、復活の時に栄化されます。1コリント15:50~53は、復活の約束を次のように語っています。

50  兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 
51  聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。  52  終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。  53  この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。 

この復活のからだを受ける時、人は罪から完全に解放されます。キリストと顔と顔を合わせ、キリストに似た者となるためです(1コリント13:12参照)。このことは、1ヨハネ3:2で次のように約束されています。

2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 

この救いは将来に実現するものなので「未来形の救い」とも呼ばれます。この救いは、1ペテロ1:5で次のように約束されています。

5  あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。 

キリストを信じた者は、義認、聖化、栄化という3つの救いを通過し、完全なものとされます。次の1コリント1:8で約束されているとおりです。

8  主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。 

そして、信者には、罪の存在そのものから解放される、罪のない世界が約束されています(黙示録21~22章)。黙示録21:4では、この世界について次のように言われています。

4  神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。 

まとめ

以上で、罪からの救いには以下の3つの意味があることを見ました。

  1. 罪のさばきからの救い:義認(過去形の救い)
  2. 罪の支配からの救い:聖化(現在形の救い)
  3. 罪そのものからの救い:栄化(未来形の救い)

聖書が語る救いには、この3つがパッケージになっています。

聖書が「救い」ということばを使っているときは、この3つのうちのどれを指しているかを考えながら読む必要があります。その際、参考になるのは時制です。過去、現在、未来のいつの時点の救いを指しているかで、義認、聖化、栄化のどれを指しているかがわかります。この点で混乱すると、救われても救いを失うという教えになったり、将来の時点で受ける栄化をこの地上で受けるというおかしな教えになる可能性があります。

参考資料

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