聖書の語る「罪の転嫁」とは?

罪論

このシリーズの第1回目の記事では、私たちが日々犯してしまう「個人的な罪」について、第2回目の記事では、アダムとエバが犯した「原罪」あるいは私たちが受け継ぐ「罪の性質」について見ました。今回は、もう一つの罪の種類である「転嫁された罪」を見ていきます。転嫁された罪は、罪の解決につながる重要な概念ですので、少し細かくなりますが、詳しく見ていきたいと思います。

罪の転嫁

転嫁とは

日本語で「転嫁」というと「自分の罪・責任などを他になすりつけること」という意味です(コトバンク)。この意味は聖書でいう「転嫁(imputation)」と重なる部分もあるのですが、厳密にいうと少し違います。聖書的な「転嫁」はギリシャ語の単語「エロゲオウ」の訳で、「計算に入れる」「(代金を)誰かの帳簿につける」といった意味です。新約聖書の中でこの単語が使われているのは2箇所だけで、その一つが次のピレモンへの手紙18節です。

18  もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。 

この手紙の受け取り手であるピレモンには、オネシモというしもべがいました。このオネシモがピレモンの元を逃げ出していたのですが、使徒パウロと出会い、キリストを信じます。パウロはオネシモをピレモンの元に返すことにし、この手紙を持たせて送り出します。上記のパウロの言葉は、その手紙の中の一文です。「エロゲオウ」が使われているのは「請求は私にしてください」という部分で、オネシモの負債を自分に「転嫁」してもよいという意味で使われています。

この「エロゲオウ」が使われているもう一つの箇所が、ローマ5:13です。この前後の文脈(ローマ5:12~19)が「罪の転嫁」を教える主な聖書箇所となりますので、以下に詳しく解説していきます。

アダムの罪の転嫁

ローマ5:12~19の最初の節となる12節では、次のように言われています。

12  こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に── 

ここで言われている「罪」は、アダムの罪(原罪)を指します。「すべての人が罪を犯した」という部分の「罪」も同じです。そう解釈する理由は、これ以降の節の解説で説明します。

次のローマ5:13~14では、次のように言われています。

13  実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。 14  けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。 

小難しい言葉ですが、「罪刑法定主義」という法律用語があります。これは「罪と罰をあらかじめ法律で定めておかなければ、犯罪者として処罰されない」という原則です。13節の「律法がなければ罪は罪として認められない」は、いわば聖書の罪刑法定主義です。つまり、律法で罪と定めていないことで人を律法違反として処罰することはできないということです。ここで「認められない」と訳されている部分に「エロゲオウ」が使われています。ここでは「計算に入れる」とか「責任を問う」といった意味です。13節は、律法がない時代に、律法に定められている罪の責任を問うことはできないという原則を示しています。

ただし、まだ律法のない時代にも、アダムには一つの律法(禁止命令)が与えられ、違反に対する罰も明確に伝えられていました。創世記2:17で「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われていたからです。そのため、当然この命令に反したアダムが罰を受けて死ぬことになります。しかし、このような明確な律法(命令)を受けていたわけではなく、モーセの律法も与えられていなかった時代の人々も死んだのはなぜでしょうか。それは、律法を受けていない人も、アダムの罪に参加していたとみなされているためです。これが「アダムの罪の転嫁」です。

このことから、人は個人的な罪で死ぬのではなく、アダムから転嫁された罪で死ぬのだということがわかります。まだ罪を犯せるほど成長していない赤ん坊でも死ぬことがあるのはそのためです。

すべての人がアダムの罪を犯したとみなされていることは、次のローマ5:15~19を見るとさらに明確になります。

15  しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。 
16  また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。 
17  もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。 
18  こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。 
19  すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。 

ここでは、「一人の違反」「一つの違反」という言葉が繰り返し出てきます。これはアダムの罪(原罪)のことです。15~18節を見ると、すべての人が死ぬのはアダムの罪のためであることが示されています。

  • 15節:「一人の違反によって多くの人が死んだ」
  • 16節:「一つの違反から不義に定められました」
  • 17節:「一人の違反により、一人によって死が支配する」
  • 18節:「一人の違反によってすべての人が不義に定められた」

罪の転嫁が最も明確に表現されているのが、19節です。

19節:「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」

ここでパウロは、私たちはアダムの罪(「一人の人の不従順」)によって罪人とされたと語っています。明らかに、聖書はアダムの原罪がすべての人類に転嫁されているという「罪の転嫁」を教えています。

この点について、ダラス神学校のロバート・ライトナー教授は次のように説明しています。

死は、アダムが罪を犯す前には存在せず、アダムの罪の結果であり罰であったのに、アダムの後に、アダムと同じようには罪を犯していない人が死んだということは、そのように死んだ人々はアダムの罪に参加し、その罰を受けたということになる。1

Since death did not exist before Adam’s transgression but was a result and punishment for his sin, and yet since men died after Adam who had not sinned in exactly the same way, it can only follow that those who thus died did so because they were participants in Adam’s sin and therefore recipients of his subsequent punishment.

MEMO
人はアダムの罪によって死にますが、死後の裁きは自分が犯した罪によって行われます。黙示録20:12では「自分の行いに応じてさばかれた」と言われているためです。

12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた

前回の記事で、「アダムとエバが犯した罪の結果をなぜ自分が負う必要があるのか」と問う人がいるかもしれないということを書きました。その答えは、アダムの罪が私たちに転嫁されているからです。つまり、私たち一人ひとりがアダムの罪に参加しているとみなされているためです。

MEMO
聖書では、原罪はアダムとエバの罪ではなく、アダムの罪(違反)と呼ばれています。これは、アダムが最初の人であり、人類の代表とみなされているためです。

アダムの罪が転嫁された理由

アダムの罪の転嫁については、もう少し説明が必要かもしれません。アダムの罪が転嫁された理由について、聖書からもう少し詳しく見ていきたいと思います。

すべての人はアダムの「腰の中」にいた

新約聖書のヘブル7:9~10では、次のように言われています。

9  言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。 10  というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。 

レビは、アブラハムのひ孫です。アブラハムがメルキゼデク王に戦利品の十分の一を納めたという故事がありますが(創世記14:17~20)、この時、レビはアブラハムの「腰の中」にいて、アブラハムの行為に参加していたというのが、上記の聖書箇所が語っていることです。これと同様に、私たちもアダムの罪に参加したと語っているのが、ローマ5:12です。

アダムは人類の代表として行動している

また、創世記1:27~28では、次のように言われています。

27  神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 28  神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 

アダムとエバには、地上とすべての生物を支配する権威が与えられていました。また、アダムには、人類を代表する権威が与えられていました(創世記2:182、1コリント11:33参照)。

人類の代表であるアダムの行為が全人類に影響を及ぼすことは、現実世界を見てもわかります。日本の政府の代表は、内閣総理大臣です。この内閣総理大臣が発布した法令や諸外国との取り決めは、日本国民全員に影響を及ぼします。日本国民である限り、「あれは首相が勝手にやったことだから私には関係ない」とは言えないのです。日本は東条内閣の時に英米に宣戦布告をして第二次世界大戦を戦いましたが、この決定に対して当時の国民が「自分には関係ない」と言えなかったのと同様です。また、現在の私たちも、好むと好まざるに関わらず、過去の首相が行った決定の影響を受けて生きています。

同様に、私たちはアダムの罪の影響を受けています。アダムの罪が転嫁された人が死ぬということは、聖書の語る現実であり、私たちが目にしている現実です。これは人類すべてに当てはまり、国や人種の違いはありません。聖書は、すべての人に宛てて書かれた書物です。

「罪の転嫁」は、悲しい現実ですが、私たちの希望にもつながる教えです。死はアダムの罪によってこの世界に入ってきたものであり、聖書ではアダムの罪に対する解決方法も教えられているためです。この解決方法については、「聖書の語る『罪の解決』とは?」をご覧ください。

まとめ

このシリーズでは、3つの記事で聖書が語る罪について述べました。聖書が語る罪は「個人的な罪」「原罪(罪の性質)」「転嫁された罪」という3つの種類に分類され、以下のようにまとめることができます。

罪の種類 聖書箇所 伝達方法 主な結果
原罪(罪の性質) 創世記3章、エペソ2:3 親から子へと 霊的死
転嫁された罪 ローマ5:12 アダムから直接 肉体的死
個人的な罪 ローマ3:23、1ヨハネ1:9 なし 神との間に壁ができる

聖書では、罪は重要な概念です。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」(1コリント15:3)とあるように、罪がわかると、キリストが十字架上で死なれた意味も実感としてわかってきます。

罪がわかり、自分が罪人であると感じている方は、イエスに招かれています。マタイ9:13で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われているからです。

最後に、真珠湾攻撃の総隊長を務め、戦後に回心してキリスト教の伝道師となった淵田美津雄氏の言葉を紹介します。

私は神を知らなかった。神を知らないで、神から離れている存在が不義であって、これを罪というのである。聖書的には、これを原罪と呼ぶ。英語では、「ザ・シン」と定冠詞がつく。あの罪、この罪というのではなくて、その罪だというわけである。そしてこの原罪があるので、あの罪、この罪といったような、いろいろな罪が派生して来る。これを「もろもろの罪」と呼ぶ。英語では「シンス」と複数のsがつく。…一般に人々は、この罪人だと呼ばれるのを嫌う。特に道徳的に行いの高い人ほど嫌う。けれども罪の意識が伴わなければ、イエス・キリストにある神信仰は芽生えない。それは、イエス・キリストが十字架で血を流して、「父よ、彼らをお赦しください」と、とりなしの祈りをしてくださったのは、この罪の贖いのためであった。これが十字架の贖罪であり、十字架の赦しである。
― 淵田美津雄『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社文庫)より

参考資料

  1. Robert P. Lightner, The Death Christ Died (Kregel Academic & Professional, 1998), p. 136.

  2. 創世記2:18「また、神である【主】は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう』」 

  3. 1コリント11:3「しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」

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