キリスト教で、「福音」という言葉はよく聞きますが、具体的にどのようなものなのでしょうか? なんとなくわかったような、わからないような方が多いと思います。そこで、この記事では聖書が語る「福音」とは何かを解説してみたいと思います。
> 「福音」という言葉の意味「福音」という言葉の意味
「福音」とは、「良い知らせ(Good News)」という意味です。原語のギリシャ語では「ユーアンゲリオン」で、元々は戦争で勝利したという知らせのことを意味していました。
新約聖書では、「福音」はイエス・キリストに関する良い知らせのことです。新約聖書のローマ人への手紙1:2~4では、次のように言われています。
2 この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、 3 御子に関するものです。御子は、 4 ……私たちの主イエス・キリストです。
ここに記されているように、福音は、旧約聖書で預言者を通して預言されていたものです。この預言が、イエス・キリストによって成就し、新約聖書に書き記されました。
それでは、福音の内容はどのようなものでしょうか?
> 福音の内容福音の内容
使徒パウロは、コリント人への手紙第一の15章で、福音の内容を要約しています。パウロは、この章を次のように書き始めています。
1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。 2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
パウロは1節で、今から福音の内容を語りますよと予告しています。2節では、今から語る福音を理解して信じているなら、その人は救われると保証しています。ここで言う「救い」とは、原語のギリシャ語では「ソーゾー」で、「危険や破滅から救い出す」という意味があり、「罪」に対するさばきから救い出されることなどを意味します。
以上のように、今から述べる福音によって救われることを約束した後、パウロは次のように福音を要約しています。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
この3~5節が、福音の要約です。この箇所によると、福音は次の3つの要素で成り立っています。
- キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた
- 葬られた
- 聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた
これがいわゆる「福音の三要素」と呼ばれるもので、信じるべき福音の内容です。もちろん、「最も大切なこととして伝えたのは」と言われていますので、福音にはそのほかの教えも含まれますが、この3つが最低限必要な信仰の内容です。このことを信じるなら、救われます。それがパウロがここで約束していることです。
3節の「罪」には、殺人や盗みといった刑法に触れる罪以外にも、嘘の証言や性的不品行など、神の道徳律に反する罪も含まれます。もっと言うと、聖書が語る「罪」とは「神の義」の基準に達しないことです(ローマ3:23参照)。「神の義」の基準は、旧約聖書ではモーセの律法、特にその中の「十戒」や、新約聖書ではマタイ5:1~8:1の「山上の垂訓」に記されています。山上の垂訓は、イエスによるモーセの律法の解釈です。
たとえば、マタイ5:21~22(山上の垂訓)で、イエスは次のように語っています。
21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。…
ここで、「~と言われていたのを、あなたがたは聞いています」という部分が、当時のユダヤ人が理解していた律法の内容です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。」以降の部分が、キリストによる律法の解釈です。ここでは、人を殺すという行為だけでなく、人に怒りを抱いて心の中でその人を殺すことも、律法に反することであり、「神の義」の基準に達しないこと、つまり罪だと言われています。
また、マタイ5:27~28では、次のように言われています。
27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
ここでも、実際に姦淫を犯していなくても、心の中で姦淫を犯すことも罪だと言われています。
神の義の基準(律法)は、自分の本当の姿を映し出す鏡です。律法の鏡に映る自分を見るとき、自分が神の義から遠く離れていることを悟ります。ローマ3:10~12に次のように書かれているとおりです。
10 …「義人はいない。一人もいない。 11 悟る者はいない。神を求める者はいない。 12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
罪に対するさばきは、永遠の滅びです。しかし、キリストを信じる者に与えられるのは、永遠のいのちです。ヨハネ3:16~18では、次のように言われています。
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
人は、罪によって神から切り離されてる時点ですでにさばかれており、滅びに向かっています。しかし、キリストは、このような私たちの罪のために死なれ、信じる者に永遠のいのちを与えてくださるのです。これが福音の中心的なメッセージです。
> 福音の三要素福音の三要素
1コリント15:3~5で、福音に含まれる3つの要素がわかりました。次は、それぞれの要素を詳しく見ていきましょう。
1.「私たちの罪のために死なれた」
イエスは、ただ死なれたのではなく、私たちの罪のために死なれました。これは、旧約聖書のイザヤ52:13~53:12に記されている「メシア預言」の成就です。イザヤ53:4~6では、次のように言われています。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
キリストの死がイザヤの預言の成就であることは、使徒ペテロが1ペテロ2:22~24で次のように語っていることからもわかります。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。 23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。 24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
「その打ち傷のゆえに、…癒やされた」とイザヤの言葉を直接引用し、ペテロは明らかにキリストの生涯をイザヤの預言の成就として語っています。
新約聖書の福音が信頼できる理由の一つは、その内容が数百年も前に語られていた預言の成就だからです。イザヤはバビロン捕囚(紀元前597年)前の預言者で、イザヤ書は紀元前740年~680年頃に書かれたものです1。つまり、新約聖書の福音は、イエスや弟子たちの創作ではなく、何百年も前に語られていた預言の成就だということです。しかも、その内容は、イエスがキリストであることを否定しているユダヤ教の聖典である旧約聖書に記されています。そのため、弟子たちがイエスの生涯に沿って旧約預言を改ざんしたという可能性もありません。また、イエスが歴史上の人物であり、新約聖書で記されているように生きたことも否定できない事実です(「イエスの歴史性」を参照)。
2.「葬られた」
イエスが葬られたということは、イエスが完全に死なれたことの証拠です。つまり、一部の人が言うように、イエスは仮死状態から蘇生したのではなく、正真正銘、死んでいた状態からよみがえったのです。また、イエスの死が歴史的事実であることを示しています。
メシアが墓に葬られることも、イザヤのメシア預言で預言されています。先ほどの聖書箇所に続くイザヤ53:9では、次のように預言されています。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
ここでいう「悪者ども」はイエスの両側で十字架に付けられた犯罪人(マルコ15:27)、「富む者」はイエスを収める墓を提供した議員、アリマタヤのヨセフ(マルコ15:43~46)と考えられます。
3.「三日目によみがえられた」
イエスの復活は、福音を信じる者もまた復活にあずかることの証明です。この点は、1コリント15:22~23が明らかにしています。
22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
ここでは、初穂であるキリストが復活することが、その後に続くクリスチャンが復活することの保証とされています。
メシアが復活することも、イザヤが預言しています。イザヤ53:10では次のように言われています。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
ここでは「自分のいのちを代償のささげ物とする」と言われており、メシア(キリスト)がみずからのいのちを差し出すことが預言されています。しかし、同時に「末長く子孫を見ることができ」とも言われています。ここでいう「子孫」とは、キリストを信じる信者を指しています。キリストは、死んだままでは「子孫」を見ることができませんので、ここではキリストの復活が暗示されています。
以上が福音の内容である「福音の三要素」です。この福音の三要素は、旧約聖書が語ってきたメシア預言の成就でした。イエス自身も、復活の後、ルカ24:25~27で弟子たちに次のように語っておられます。
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
> 福音を信じることが救いの条件福音を信じることが救いの条件
福音を信じることで救われることは、ローマ人への手紙1:16でも約束されています。
16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
この福音を信じること以外に、救いの条件はありません。信仰が救いの条件です。実際に、上記の聖書箇所に続いて、ローマ1:17では次のように言われています。
17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
先ほど、神の義が律法に示されていることを述べました。ところが、律法によって義と認められる人は誰もいません。しかし、キリスト以降、福音による神の義が啓示され、福音を信じる信仰によって、神の義が与えられる道が開かれたのです。福音を信じる人は、キリストの義によって「義人」とされます。
聖書は、死後のさばきを教えています(ヘブル9:27)。しかし、キリストを信じる者は、キリストがすべての罪を負ってくださったために、さばかれません。ヨハネ3:18で、次のように言われているためです。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
先ほど見た1コリント15:2で言われていたように、福音を信じることで救われることは、神が聖書で約束しておられることです。救われるためには献金や何らかの儀式(洗礼や聖餐式など)が必要と語り、信仰以外の要素を付け加えるものは純粋な福音ではありません。そうしたことは救われた後に行うことであって、救いの条件ではありません。エペソ人への手紙2:8~9で次のように書かれているとおりです。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
> 別の福音では救われない別の福音では救われない
聖書では、福音の三要素を信じることで救われることが約束されています。逆に言うと、福音の三要素を信じていない人は、救われていないことになります。三要素の一つが欠けても、救いに至る信仰とはなりません。
たとえば、キリストの復活は比喩であって、キリストの肉体が実際によみがえったわけではないと教える人がいます。しかし、そういう教えでは人は救われません。実際に、パウロは1コリント15:12~14で次のように語っています。
12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。 13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。 14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
14節の「空しい」は、ギリシャ語では「ケノス」という単語で、「空っぽ」という意味です。つまり、復活を信じない信仰には中身がないということです。
また、ローマ4:24~25では次のように言われています。
24 ……すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。 25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
「私たちが義と認められるために、よみがえられました」ということは、復活がなければ、私たちが義と認めれること(救われること)もないということです。キリストの復活を信じる信仰が重要であることがここでもわかります。
> 福音には前提事項がある福音には前提事項がある
福音の三要素を信じているといっても、キリストをどのような方と信じているかによって、本当の信仰に至っていない場合があります。それは、次のイザヤ43:10~11のような聖書箇所があるためです。
10 あなたがたはわたしの証人、──【主】のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。 11 わたし、このわたしが【主】であり、ほかに救い主はいない。
【主】は、聖書の神「ヤハウェ」のことです。この神が唯一の神であることが、聖書の前提です。そして、ここでは神以外に「救い主はいない」と言われています。つまり、イエスが神でなければ、救い主になることはできません。福音の三要素には、イエスが神(ヤハウェ)であるという土台が必要なのです。これが三位一体という教理が生まれた背景にあります。ヨハネ8:24で、イエスは次のように語っています。
24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」
「自分の罪の中で死ぬ」とは、罪のさばきを受けるということです。また、ここで言われている「わたしはある」というのは、神の御名です。この御名は出エジプト記に出てきます。エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を救い出すように神から命じられたモーセは、出エジプト3:13で次のように神にたずねます。
13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
これに対し、神は出エジプト3:14で次のようにお答えになります。
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
ヤハウェという神の御名も、「わたしはある」というヘブル語に由来するものです。イエスは、この神の御名を自分を指す言葉として使っておられます。そして、イエスの言葉を聞いていたユダヤ人もそのようにとらえたことが、ヨハネ8:58~59にある次の記述からわかります。
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
神を冒涜する者は、モーセの律法では石打ちによる処刑の対象です。ユダヤ人たちは、自分を神とするイエスの言葉を神への冒涜ととらえ、石で打ち殺そうとしたのです。
キリストを信じる者は、キリストを人であると同時に神と認める必要があります。
> まとめまとめ
福音は実にシンプルです。信じる必要のある三つの要素は、次のとおりです。
- キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた
- 葬られた
- 聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた
この福音を信じ、キリストに信頼する者は救われます。
> 参考資料参考資料
- “The Gospel message with Dr Arnold Fruchtenbaum,” Know My Faith (https://www.youtube.com/watch?v=Euvv_0dOCyE)
- Arnold Fruchtenbaum, “The Condition of Salvation” (Ariel Ministries)
- 中川健一「福音」(聖書入門.com)(https://seishonyumon.com/glossary/%E7%A6%8F%E9%9F%B3/)
- 中川健一「『福音の三要素』 ハーベスト大阪月例会」 (ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)(https://www.youtube.com/watch?v=mI-xRM1lUi4)
- “What is the gospel?,” Got Questions (https://www.gotquestions.org/what-is-the-gospel.html)
- “What is the Gospel?,” Bible.org (https://bible.org/article/what-gospel)
- Michael Moyles, “Is Belief in the Resurrection Required?,” Clear-Thinking Christian (https://clearthinkingchristian.com/2012/06/06/is-belief-in-the-resurrection-required/)
- Charles C. Ryrie, Basic Theology (Moody Publishers, 1999)
聖墳墓教会の写真:Berthold Werner (CC 表示-継承 3.0)
-
Charles C. Ryrie, The Ryrie Study Bible (NASB) (Moody Publishers, 2008), p. 805 ↩
[…] ウェストウッドが証ししているように、新使徒運動(NAR)系の教会が持つ最大の問題点は、聖書の語る福音が語られず、いやしや奇跡、預言といった現象ばかり強調されることである。福音を語らない教会は、もはや教会とは呼べない。 […]
[…] イエスは、一度目は人々の罪を負うために来られ、十字架上でそのわざを完了された。そのため、イエスをキリストと受け入れて福音を信じる者は罪を赦され、救われる。イエスは、二度目にはこのような人々のために現れてくださる。しかし、そうでない人には「死後にさばきを受けることが定まっている」(27節)と言われている。キリストの再臨のしるしが現れ始めている今のうちに、読者もキリストの救いを受け、キリストを待ち望む者となることを筆者は願っている。 […]
[…] MEMO 聖書の福音については、「聖書の語る『福音』とは」を参照してください。 […]
[…] MEMO マタイ13:27~30でイエスが「毒麦のたとえ」で教えているとおり、誰が真の信者で、誰がそうでないかという判断については慎重になる必要があります。ただ、真の信者かどうかは、聖書の福音を信じているかどうかでわかります。本人であれば自分が信じていることがわかるので、自分の救いは確認できます。聖書の福音については、「聖書の語る『福音』とは」を参照してください。 […]
[…] 時代が悪くなっても、希望を失う必要はない。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)と言われているからだ。この記事を読んでくださっている方が、キリストの福音を信じ、キリストにある救いを受け、いつの日か神の国でお会いすることを切に願う。 […]
[…] 今は、サタンの計画も進行しているが、神の計画も同時進行している。機会が与えられているうちに、福音を信じ、キリストの救いを受け入れる人が起こされることを願う。 […]
[…] ここで言われている準備とは、油を持っておくこと、つまり福音を信じ、救いを受けておくことです。賢い娘たちも、居眠りをしてはいましたが(マタイ25:5)、この準備ができていたので、花婿を出迎え、婚礼の祝宴に入ることができました。 […]
[…] 聖書預言の3つ目の役割は、福音が救いの方法であることを証明することです。 […]
[…] 終末預言では、災害や戦争など、喜ばしくない状況が数多く預言されています。しかし、聖書預言が成就するということは、神がすべてを支配しておられる中で、物事が進んでいるということです。神に想定外はありません。ここに希望があります。さらに、福音を信じることで神の子どもとされ、永遠のいのちをいただけること、携挙に与ることができること、また終末時代の後にはキリストの御国が地上に設立される(メシア的王国/千年王国)という希望が与えられています。 […]
[…] 聖書では、神を知るための預言に加えて、どのような状況でも取り去られることのない希望が語られています。それがイエス・キリストの福音です。福音を信じる者には、すべての罪の赦しと、永遠のいのちが約束されています。キリストにある救いと希望は、すべての人に差し出されています。 […]