聖書の語る「罪」とは?

罪論

聖書ではよく「罪」という言葉が使われますが、日本人が一般的に考える「罪」とは少し違う概念です。一般的に日本では、罪というと殺人や盗みといった犯罪を思い浮かべますが、聖書の語る「罪」にはそれ以上の意味があります。また、罪の理解は、聖書を理解する上で特に重要です。

ただ、残念なことに、教会であっても、聖書から罪について語られることが少なくなっているようです。しかし、マタイの福音書9:13でイエスは次のように明言しています。

13 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

イエスは罪人を招いて福音(よい知らせ)を語っています。そのため、罪というものがわからないと、罪人が何かもわかりませんし、イエスの福音も正しく理解できません。また、聖書全体が伝えようとしているメッセージを正しく受け取ることも難しくなります。

罪の定義

聖書では、罪をどのようなものであると語っているのでしょうか。少し細かい議論になりますが、聖書による罪の定義を見ていきます。

的外れ

聖書の原語には「罪」と訳される単語がいくつかあります。代表的なものが、旧約聖書では「カタ」(ヘブル語)、新約聖書では「ハマルティア」(ギリシャ語)という単語です。どちらも「的を外す」という意味です。

新約聖書の「ハマルティア」という言葉の持つ意味が端的に示されているのが、次のローマ人への手紙3:23です。

23  …すべての人は罪(ハマルティア)を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。 

MEMO
ここでは、翻訳上の問題で、本サイトで通常使用する『新改訳2017』ではなく、『リビングバイブル』の訳を採用しています。1

この「神の輝かしい標準」という言葉は、「神の基準」と言い換えることもできます。罪とは、神の基準という的を外してしまうこと、あるいは神の基準に達しないことです。神学者のルイス・スペリー・シェーファーは、ローマ3:23の「罪(ハマルティア)」の意味について、次のように要約しています。

基本的な意味は、人は不十分な者で、的を外し、神の聖なるご性質の基準に達していないということである。2

The essential idea is that man comes short, he misses the mark, and he fails to attain the standard of God’s own character of holiness.

罪が「神の基準に達しないこと」であれば、次に「神の基準とはどのようなものか」を知る必要があります。これが、次の罪の定義と関係してきます。

律法違反

罪のもう一つの定義は「律法違反」です。1ヨハネ3:4では、罪(ハマルティア)を次のように定義しています。

4  罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。

ここでは、罪とは「律法に違反すること」と言われています。律法の目的の一つは、「神の義の基準」を示すことです。ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、次のように語っています。

(律法の)第一の目的は、神の聖さを啓示することであり、神との適切な関係を築くために神が要求する義の基準を啓示することであった。3

The first purpose was to reveal the holiness of God; to reveal the standard of righteousness which God demanded for a proper relationship with Him.

先ほど神の基準について述べましたが、神の基準が示されているのが律法です。そのため、律法に違反することが罪となるのです。

モーセの律法の「十戒」

律法とは、旧約聖書ではモーセの律法を指します。特に、その中でも「十戒」(出エジプト20:1~17、申命記5:6~21)に、神の義の基準が明確に記されています。

十戒は次のような内容になっています。

  1. あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
  2. あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. 人を殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
  10. あなたの隣人のものを欲しがってはならない。

MEMO
モーセの十戒については、ひよこ「モーセの十戒をわかりやすく解説! 十戒に隠されている本当の目的とは!?」(新生宣教団)が参考になります。十戒の一つひとつの条項が解説されています。

モーセの律法は、イスラエルの民に与えられたものです(ローマ9:4)。そのため、私たちには直接関係のない規定(安息日規定)もあります4。ただ、そこには神の義の基準が確かに示されています。

たとえば、十戒は「人を殺してはならない」という命令で人命を守り、「盗んではならない」という命令で個人の財産を保護しています。これらの命令がなければ、人間社会が混乱に陥り、崩壊することが目に見えています。それは人を創造した神の本意ではありません。こうした命令には、人間に対する神の愛と義が示されています。

また同時に、人は神の義に背く存在であることも示されます。第十戒の「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」という命令を完全に守るのは難しいのではないでしょうか。自分よりも周りの人の方が良い暮らしをしていたり、良い配偶者に恵まれていたり、才能に恵まれていたりすると、ねたみの思いが生じてこないでしょうか。このような思いは、神の義の基準から外れており、罪と呼ばれます。

イエスの「山上の垂訓」

「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの言葉は、キリストによるモーセの律法の解釈です(マタイ5:1~8:1、ルカ6:17~49)。この山上の垂訓では、神であるキリストご自身が、律法に示された神の義の正しい解釈を教えています。

たとえば、マタイ5:21~22で、イエスは次のように語っています。

21  昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 22  しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

ここで、「~と言われていたのを、あなたがたは聞いています」という部分が、当時のユダヤ人が聞いていた律法の内容です。「しかし、わたしはあなたがたに言います」以降の部分が、キリストによる律法の解釈です。ここでは、人を殺すという行為がなくても、人に怒りを抱くことも罪だと言われています。殺人という行為は、人に怒りを抱くことから始まり、その時点で神の義に反しているためです。

マタイ5:27~28では、姦淫について次のように言われています。

27  『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 28  しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 

ここでも、実際に姦淫を犯していなくても、心の中で姦淫を犯すことも、神の義に反することであり、罪だと言われています。こう見てくると、キリストは外面的行為だけでなく、人の内面を重視していることがわかります。神の義は、外面的行為だけでなく、内面に関するものだというのが、キリストの教えです。

マタイ5:38~39では、復讐について次のように言われています。

38  『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 39  しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。 

「目には目を、歯には歯を」(出エジプト21:24)は、「同害復讐法」と言い、復讐がエスカレートしないようにするモーセの律法の規定です。しかし、キリストはこれを一歩進めて「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と語り、無抵抗を教えています。これはそう簡単にできるものではありません。しかし、これがキリストの教える神の義の基準です。そして、キリストは実際にこの基準に従って歩み、十字架にかかられました。

また、マタイ5:43~44では、隣人愛について次のように言われています。

43  『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 44  しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」というのはユダヤ教のエッセネ派の教えですが、これに対して、キリストは自分の敵を愛し、祈ることを教えました。これが神の愛の本質であり、神の義の基準であるからです。そして、実際に、キリストは罪人である私たちのために死んでくださったのです(ローマ5:8)。

そして、キリストによる律法の解釈の結論が、マタイ5:48に記されています。

48  ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。 

キリストは、そのように神の義の基準を教えた後、最後に「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と命じています。これは人にとっては絶望的な言葉です。しかし、これが律法の要求なのです。

しかも、聖書では、モーセの律法は613の命令がすべて一体となっており、そのうちの1つに違反しただけでも、律法全体に違反したことになると教えられています。ヤコブ2:10~11では、次のように言われています。

10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。 11  「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。 

ローマ3:23では「…すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です」と言われていました。このように罪の内容を具体的に見てくると、なるほど自分は神の基準にはとうてい達することができない罪人であることがわかります。

MEMO
山上の垂訓について詳しく知りたい方は、中川健一「30日でわかる聖書 マタイの福音書(5)山上の垂訓(1)」、同「30日でわかる聖書 マタイの福音書(6)山上の垂訓(2)」が参考になります。
心に記された律法

モーセの律法は、イスラエルの民に与えられたものです。そのため、日本人には関係がないと言われる方がおられるかもしれません。しかし、私たちには、モーセの律法は与えられていなくても、心の中に神の律法が記されています。ローマ2:14~15では、次のように言われています。

14  律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。 15  彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。 

人の心には律法が記されており、神の義の基準が刻み込まれています。そのため、神を普段信じない人でも、十戒や山上の垂訓を読むと、反発しながらも確かにそのとおりであると納得してしまうのです。

律法の目的

律法が与えられているのは、律法に従うことで救われるためではありません。律法の目的の一つは、罪を明らかにすることです。ローマ3:20では、次のように言われています。

20 ……人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 

律法を読むことで、人は律法に示された神の義の基準にはとうてい届かないことに気づかされ、罪の意識が生じます。これが律法の重要な目的です。先述のフルクテンバウム博士は、次のように語っています。

律法は、私たちに罪に関する知識を与え、罪が一体どういうものかを明らかにするためにある。5

The Law is there to give us the knowledge of sin, to reveal exactly what sin is.

律法は罪の意識を生じさせますが、それが最終目的ではありません。ただ、それは救いに関する記事で解説することにして、ここではもう一つの罪の定義を紹介したいと思います。

不義

罪のもう一つの定義は「不義」です。新約聖書で使われている「アディキア」という単語は、「不義」「不正」「法と正義に反する行い」といった意味で、罪というものを考えるもう一つの視点を与えてくれます。

ローマ1:18~21では、「不義(アディキア)」の一例として、次のように記されています。

18  というのは、不義(アディキア)によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 19  神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20  神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。 21  彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

ここでパウロは、自然界(「被造物」)を見れば、神がおられ、神が天地をお作りになったことがわかると語っています。人間は、自然界を通して、心の奥底では神がおられることを知っているのに、その真理を否定していることが「不義」だというのです。

現在の日本では「神はいない」と考えている人が多いので、それが「不義」と言われると心外に思う方が多いかもしれません。

ただ、普段は神を信じていない人でも、危機に陥ると「神様!」と祈ったり、神社仏閣に参拝したりといったことがあります。また、富士山の荘厳な眺めを見て厳粛な気持ちになったり、宇宙や生物の巧妙な仕組みを知って畏怖の念を抱いたりすることもあります。こうした現象は、被造物の背後には神の存在があることを人が内心では知っていることを示しているのではないでしょうか。

よく無神論の人が、神がおられるなら、なぜ自然災害や戦争で多くの人が亡くなったり、幼い子どもが病気で亡くなったり、世界で悲惨なことが起こるのかと問うことがあります。しかし、無神論者が信じる進化論では「適者生存」が原則なので、環境に適応できない「弱者」が淘汰されていくことは当然なはずです。しかし、人の心は、進化論のような血の通わない論理を心では受け入れられないのです。それは、人の心に神の律法が書き記され、良心が与えられているからではないでしょうか。頭では進化論が正しいと考えていても、心ではそのような理屈に耐えられないのです。

多くの人は、心の底では神がいることを知っていながら、それを否定するという罪を犯しています。そのように真理を阻んでいる人に対して、神の怒りが啓示されているというのが、パウロのメッセージです。聖書によると、世界を創造した神に背を向けて生きることが罪なのです。

まとめ

以上で、罪の定義について見ました。こう見てくると、罪を犯していない人はいないということがわかるのではないでしょうか。ローマ3:9~12で、パウロは次のように語っています。

9  ……私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。 10  次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。 11  悟る者はいない。神を求める者はいない。 12  すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」 

自分が罪人であるということは喜ばしくないニュースです。しかし、もう一つ悪いニュースがあります。ヘブル4:13では、次のように言われています。

13  神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。 

私たちの罪は、神に隠れてはいません。そして、人は神にすべての罪について申し開きをすることになります。これが聖書のメッセージです。

しかし、希望はあります。冒頭で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」というイエスの言葉を紹介しました(マタイ9:13)。罪の問題には解決があります。それはイエス・キリストを通して与えられるものです。

次の記事では、罪の起源である「原罪」を取り上げたいと思います。

参考資料

  1. 『新改訳2017』では、ローマ3:23は「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と訳されています。しかし、「受けることができず」は意訳で、原文に忠実な英語訳では「fall short of」(例:ASV)となっています。「~に達しない、届かない」という意味です。そのため、今回は原文のニュアンスに近づけるためにリビングバイブルを採用しています。

  2. Lewis Sperry Chafer, Major Bible Themes (Zondervan Publishing House, 1974), p.178

  3. Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and the Law of Messiah” (Ariel Ministries), p.5

  4. 「モーセの律法」はイスラエルの民と神との契約なので、異邦人(ユダヤ人以外の民族)である私たちには直接適用されません。しかし、新約聖書に記された「キリストの律法」(ガラテヤ6:2)には、十戒のうち、第四戒の安息日規定以外はすべて含まれています。そのため、十戒の第四戒以外は、私たちにも関係する律法であると考えることができます。

  5. Arnold Fruchtenbaum, “The Law of Moses and the Law of Messiah” (Ariel Ministries), p.6

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