キリスト教では「救い」「救われる」という言葉をよく聞きます。ただ、「何から救われるのか」がわからないと、意味が伝わりません。たとえば、「借金地獄から救われる」と言うと、どういう救いなのかがわかります。聖書も、何から救われるのかを語り、救いの意味を明らかにしています。
> 罪からの救い罪からの救い
聖書が語る救いとは、第一義的には「罪からの救い」です。マタイの福音書1:21は、マリアの夫となるヨセフに御使い(天使ガブリエル)が現れる場面です。ここでヨセフは、イエス・キリストがこの世に来られた目的を御使いから次のように告げられます。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
イエスがこの世に来られた目的は、人々を罪から救うことです。これが聖書が語る救いのメッセージです。
キリストは罪人を救うために来られた
1テモテ1:15でも、使徒パウロは次のように語っています。
15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。
また、イエスご自身も、マタイ9:13でこう語っています。
13 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。
罪人が罪から救われることが、聖書が語る「救い」の最も基本的な意味です。イエス・キリストに救われるとは、罪から救われることと言い換えることもできます。
つまり、聖書は正しい人には救いを語っていません。正しい人は罪からの救いを必要としていないからです。
すべての人が罪人
しかし、この世に「正しい人」と言える人がいるのでしょうか。聖書はこう語っています(ローマ3:10~12)。
10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。 11 悟る者はいない。神を求める者はいない。 12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」
聖書は「義人はいない」と断言しています。また、1テモテ2:4では、次のように言われています。
4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
「神は罪人を招いておられる」と「神はすべての人が救われることを望んでおられる」という言葉を合わせて考えると、すべての人は罪人だということです。言い換えると、聖書の救いはすべての人に差し出されていますが、自分が罪人であると自覚している人だけが救いを受け取ることができる、ということになります。
なぜ聖書ではここまで罪が問題にされるのでしょうか。それは、罪があらゆる悪の根源であるためです。神は人をご自身に似せて創造されましたが(創世記1:27)、最初の人アダムが犯した罪のゆえに、人は罪の性質を持って生まれてくるようになりました。これを「原罪」と呼びます。そして、人類が罪の性質を受け継いで生まれてくることで、新たな罪を生み、罪が再生産されていくのです。
人には罪の性質があるので、内側から罪がわき出てきます。イエスがマルコ7:20~23で語っている通りです。
20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、 23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
このような内側の罪が、あらゆる形の悪となって出てきます。悪は、ある日突然行われるのではありません。殺人者は、突如殺人を犯すのではありません。まず内側に殺意が芽生え、それが外面に行動として表れるのです。この世の悪には、すべて同じことが言えます。
この世界にはびこる悪の問題を解決するには、罪の問題を解決する必要があります。
> 罪の解決罪の解決
無神論者が神を信じない理由の一つとして挙げるのは、「この世界には理不尽なことや悪がまかり通っているのに、神がおられるのであれば、なぜ神は悪を野放しにされるのか」というものです。聖書にも「神様は、これっぽっちの悪も喜んだりなさらず、どんなささいな罪でも大目に見たりはなさいません」(詩篇5:4。リビングバイブル1)と書かれているのに、なぜこの世界では悪が野放しになっているように見えるのでしょうか。
神のジレンマ
問題は、神が悪を根絶やしにするのであれば、あなたが内に抱える罪も見過ごすことができない、ということです。そして、罪に対する神のさばきは「死」です。新約聖書のローマ6:23で「罪の報酬は死です」と言われているためです(創世記2:16~17も参照)。
この原則は、罪の大小にかかわらず、あらゆる罪に適用されます2。ヤコブ2:10で次のように言われているためです。
10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。 11 「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。
悪の問題を解決するには、罪の問題を解決する必要があります。罪の問題を解決するには、罪の報いとして死を与える必要があります。しかし、すべての人が罪を犯したので、悪の問題を解決するには、すべての人が死ぬ必要がある、というジレンマが生じます。
ジレンマの解決
このジレンマを解決するために世に来られたのが、イエス・キリストです。イエスは聖霊によってマリアに宿り、罪の性質がない人として生まれ、罪のない生涯を送られました。そして、罪のないイエスがすべての人の罪を負うことによって、罪の問題の解決が図られたのです。
罪人が死ぬのは、自分の罪に対する報いです。そのため、人の罪を背負うには、罪のない人の死が必要でした。なぜイエスが死ぬ必要があったかというと、旧約聖書に次のような原則が定められているためです(レビ17:11)。
11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。 (新改訳聖書第三版)
これは、人の罪が赦されるためには、動物をほふってささげる必要があるという旧約聖書のいけにえの規定です。「贖う」とは、買い戻すという意味です。罪の報酬は死なので、死が定められている人のいのちを買い戻すには、代わりに別のいのちを差し出して死に渡す必要があるのです。この規定に従い、イエス・キリストが十字架上で死に、血を流してくださったのです。この血によって、信じる者は罪が赦され、死の定めから解放される道が開かれました。
また、旧約聖書には「木にかけられた者は呪われる」という規定があります(申命記21:22~23)。
22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、 23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。
イエスは、十字架にかけられることで、すべての人の罪を負い、罪の呪いを一身に受けてくださいました。ガラテヤ3:13で次のように言われているとおりです。
13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
そのため、次のコロサイ2:14が言うように、キリストを信じる者の罪はすべて十字架に釘付けられ、赦されるのです。
14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
先ほど引用した「罪の報酬は死です」というローマ6:23の言葉の後には、次のような言葉が続きます。
23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
罪の問題から解放された者は、死の問題からも解放され、イエス・キリストにある永遠のいのちを受けます。これが、聖書の語る救いです。この救いが要約されているのが、聖書で最も有名なことばと言われるヨハネ3:16です。
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神は愛です。そして、神の愛の究極のかたちがイエス・キリストの十字架です。それは、罪に対するさばきを要求する「神の義」と、どれほど罪に陥っていたとしても人を救いたいという「神の愛」の間にある葛藤、ジレンマを解消するために神が選択された方法でした。
> 救いの方法救いの方法
救われるための方法は、福音を信じることです。福音とは、キリストが十字架上で私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたという良き知らせです。これを「福音の三要素」と呼びます。
この救いは、神の一方的な恵みによるものです。この恵みのゆえに、信じるだけで救われるのです。エペソ2:8~9で、次のように言われているとおりです。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
ここで言うように、救いを受けるために修行をする、功徳を積むといった行いは必要ありません。また、この救いは永遠に失われることがありません。「永遠のいのち」は、信じた瞬間に受け、永遠に続くものだからです。
> 救いの結果救いの結果
人が救われると、罪を赦され、永遠のいのちが与えられるだけではありません。救われた人は、新しく造られた者です。2コリント5:17で次のように言われているとおりです。
17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
この聖書箇所が言うように、肉体的にではなく、霊的に新しく生まれることを「新生」と呼びます。新生した人には、次のような変化が生じています。
- 神と和解した(ローマ5:10~11、コロサイ1:20~22)
- 神の怒りから救われている(ローマ5:9)
- 神との平和を持っている(ローマ5:1)
- 罪が過去、現在、未来にわたってすべて赦された(コロサイ2:13~14)
- 暗闇(悪魔)の力から救い出され、キリストの支配の下に移されている(コロサイ1:13)
- 聖なる祭司の一員とされる(黙示録1:5~6、5:9~10)
- 天国の市民となる(ピリピ3:20)
- 神の家族の一員となる(エペソ2:19)
- 神に養子に迎え入れられる(ローマ8:15、エペソ1:4~5)
- 神の子どもとなる(ヨハネ1:12、ローマ8:16)
- 主にある光となる(エペソ5:8)
- すべての霊的祝福を所有する(エペソ1:3)
- キリストの受け継ぐ遺産の共同相続人となる(ローマ8:17、エペソ1:18、ガラテヤ4:7)
- 律法から解放されている(ローマ6:14、エペソ2:14~16)
- 神に近づくことができる(エペソ2:18、ヘブル4:14~16)
- 神によって養われる(ルカ12:24)
以上は、キリストを信じる信者すべてに保証されているものです。そのため、信者の生き方によって獲得するものでも、失われるものでもありません。
> まとめまとめ
聖書が語る救いとは、第一義的には罪からの救いであること、その結果として永遠のいのちが与えられることを見ました。そして、救いは神の一方的な恵みによって与えられるもので、行いの結果ではないことも見ました。このような救いを与えることができる方は、イエス・キリストのみです。使徒4:12で、使徒ペテロが次のように語っているとおりです。
12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
キリストにある救いは、人が人生の中で受けるものの中で最もすばらしいものです。聖書の語る救いは、複雑なものではありません。必要なものは、聖書に記された神のことばを信じる心です。ルカ18:16~17で、イエスが次のように語っておられるとおりです。
16 イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。17 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
キリストによる救いを受けたいと願う方は、福音の三要素を心から信じていることを確認してください。そして、次の祈りを祈ってください。
天の父なる神様。私はあなたに背を向けて生きてきました。お赦しください。
イエス・キリストが私の罪のために死に、墓に葬られ、3日目に復活されたことを信じます。
イエス・キリストを私の人生の主として心にお迎えします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
キリストの福音を信じた人は、誰でもキリストの教会の一員です。これを「普遍的教会」と言います。また、信者は地域にある教会の一員となり、キリストにある者として成長します。これを「地域教会」と呼びます。キリストの福音を信じたら、ぜひお近くの地域教会を訪れてみてください。
> 参考資料参考資料
- “The Gospel | Voddie Baucham,” Apologia Bros (https://www.youtube.com/watch?v=fdom3sGlGAI)
- アーノルド・フルクテンバウム(通訳:中川健一)「2011年フルクテンバウムセミナー 聖書が教える救いとは」(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)
- Charles C. Ryrie, Basic Theology (Moody Publishers, 1999)
- Lewis Sperry Chafer, Major Bible Themes (Zondervan Publishing House, 1974)
[…] MEMO 救いの定義については、「聖書が語る『救い』とは」を参照してください。 […]
[…] この預言は、終末預言の一つで、キリストが地上で神の国(千年王国)を樹立する前に、全地(「全土」)は一つの政府(「第四の国」)が統治すると語っている。「全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く」と言われているように、この政府による支配が非情で残酷なものになることも預言されている。この政府は、反キリストと呼ばれる神とキリストに敵対する人物が支配するとも預言されており、聖書は決してこの政府を肯定的に描いていない。つまり、世界統一政府の時代は暗黒の時代であり、グローバリズムが拡大する現在は、この時代に向かっている時代である。しかし、そのような時代でも、キリストによる救いは人類に差し出されている(「聖書が語る「救い」とは」参照)。 […]
[…] 時代が悪くなっても、希望を失う必要はない。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)と言われているからだ。この記事を読んでくださっている方が、キリストの福音を信じ、キリストにある救いを受け、いつの日か神の国でお会いすることを切に願う。 […]
[…] MEMO イエス・キリストにある救いについては「聖書が語る『救い』とは」を参照してください。 […]
[…] 聖書では、神を知るための預言に加えて、どのような状況でも取り去られることのない希望を語っています。それがイエス・キリストの「福音」です。福音を信じる者には、すべての罪の赦しと、永遠のいのちが約束されています。キリストにある救いと希望は、すべての人に差し出されています。 […]
[…] 聖書では、神を知るための預言に加えて、どのような状況でも取り去られることのない希望が語られています。それがイエス・キリストの福音です。福音を信じる者には、すべての罪の赦しと、永遠のいのちが約束されています。キリストにある救いと希望は、すべての人に差し出されています。 […]
[…] ここで言われているように、聖書で将来の預言が与えられているのは、天地をお造りになった神がおられることを人が知り、真の神に立ち返るためです。神に立ち返る道は、イエス・キリストの福音によって示されています。この記事を読まれる方が、イエス・キリストにある救いを受けられるようにお祈りいたします。 […]