キリスト教は人びとに悔改めを命じ、かつまた赦しを約束する。したがって、悔い改めなければならないようなことをやった覚えのない、また赦してもらう必要を感じない、そういった人びとに対しては、キリスト教は語るべき言葉を(私の知るかぎり)全く持っていないわけである。神の道徳的法則があり、その法則の背後に或る力が存在する、自分はこの法則を破り、その力に敵対する者となってしまった――こういうことをすべてあなたが認めたのち――認める一瞬前でもダメだ――そののちにはじめてキリスト教はあなたに向かって語り出すのである。
C. S. ルイス『キリスト教の精髄』(新教出版社、1977)、P.66